部屋まで一目散に駆け戻って、オートロックのカードキーをあたふたとバッグから出す。
(杢太郎さん、救、け・・・)
開けたドアの向こうは、もちろん真っ暗な部屋だ。
カードキーをスロットに差し込むと、部屋にはぱっと灯がついた。
私が出かけた時のまま、人の気配は感じない。
部屋に戻っても、杢太郎さんはいない。
「ひっ・・・・・」
堪えてきた涙が、とうとう溢れ出した。
純粋に、ショックを受けていた。
(私を思い続けてくれた人を傷つけたんだ)
(あの時も、今も)
(そして、13年間、ずっと)
フラフラとベッドにつまづいて、床にへたり込んだ。
ベッドに腕を放り出して顔を突っ伏したら、うつろな意識に、涙がじわっと滲んで流れて落ちた。
アリコくんのことが、昔はちょっと好きだったと思う。
ナイーブで優しくて、お父さんとも気が合って。
(ありがとう、ごめん、もう心配しないで)
(私、今、幸せなんだ)
(大丈夫だから・・・)
・・・とは言ってみても、今その主張に、説得力があるんだろうか?
(・・・へ、へんな女ってなによぉ?)
やがて涙はポロポロ溢れ出て、ベッドの上を濡らし始める。
(そんなんで泣かされてたら、アリコくんにどう申しわけ立てろって言うのよぉ・・)
アリコくんへの罪悪感のようなものと、情けなさが混ざったような、やるせない気持ちに押しつぶされそうだ。
(なんで今居ないのよ。杢太郎さんに会いたいよぅ)
たまらず私は、自分で自分の両目をぐっと押さえつけた。
彼をよく知らない内に結婚した。好きだったけど、考えてるヒマは無かった。
彼はどこを取っても本当に素敵で、知れば知るほど好きになれる人だった。
毎日はとめどもない愛する気持ちに満たされて、幸せが青天井を超えて行った。
外では彼は、数えきれない人たちから頼りにされ、期待される。
無理げでも想定外でも少しも怖じけ付くことなく受け止める彼は、いつも相手を元気づける笑顔で、どんな事にでも答えを返し続けてきた。
そんな彼が今までに体で温もりを与えてきた人は一体、どれだけいるのだろうか。
正直きっと多すぎる。想像出来ない。てか、したくもない。
思っただけで、泣けてくる。
(・・・私動揺してる。あんな杢太郎さんらしくもないメールに)
彼は、私に「寝てなさい」なんて言い方は絶対にしない。
(・・・最初から、おかしいって分かってる筈なのに)
そういう時いつも、彼は「休んでていいぞ」って私を気遣ってくれる。
藤次郎さんと話し込んだ時だって、夜通し引継資料を作ってた時だって、いつだって彼はそうだった。
私に命令形で話すことなんか、余程のことでない限り、無いのだ。
「そうだよ・・・あんなの杢太郎さんじゃない」
心の声が呟きになって、口からポロッとこぼれた。
結婚してから、一度もそんなんで泣かされたことなんて無い。
(彼の感触を思い出す人なんて、今でもたくさん、そりゃ、いるだろうね・・・)
今まで何を思っても、みんな、私の取り越し苦労だった。
(だけどその誰の元にも、最後彼は、帰らなかったんじゃないの・・)
だいたいここは、私の不慣れな東京だ。
乗り換えも何もない電車すら、彼は心配しすぎて私を一人で乗せなかった。
過保護ってくらい責任感が強い彼は、メールひとつで私を朝まで一人にできるような、そんな人じゃない。
仮に連れ出されたって、「何が何でも帰る」って言う。
私が待ってるから帰るって、絶対言い出すに決まってるのだ。
「ありえない」
自分で言って、はっとした。
(・・・あれ・・・私は一体、何に動揺していたの??)
混乱にまみれた目の前の霧が、一気に晴れていくように感じた。
(だよね。あれは彼の意思じゃない)
彼を一晩中拘束しようとした誰かが、あの下手くそな、なりすましメールを打ったんだ。
順番に考え始めると、涙もどんどん醒めていく。
そしたらその人が、「へんな女」なの?
なんでアリコくんを知ってるの?
そんなこと、誰ができる・・・
アリコくんは私に、こう、教えてくれた。
『しぃちゃん・・・奥さんに』
この呼び方は・・・
(えっ・・・・)
(お、おがた・・・くん?)
今日彼は、尾形くんと間違いなく報告会で会っているはずだ。
杉元くんをメジャーに売る機会を逸した今、杢太郎さんの立場はかなり悪いだろう。
杢太郎さんは、尾形くんと組むと言っていた。
彼の仕事がうまくいかなければ、必然的に尾形くんのミッションも、何か達成できなくなるのでは?
表向きのプロジェクトは無事報告をできたとしても、裏には悪い報告しかない。
だったら会議の後揉めて、約束の時間なんか吹っ飛ぶ確率は高い。
胸騒ぎがして、一瞬悪寒がする。
「帰れない」なんてなりすましで打たれてるなら、それが普通の状況とは思えない。
(杢太郎さんは無事なの?)
(身の危険に、晒されてりしてない?)
私は、頭を横にぶんぶんと振った。
(そんな、尾形くんが物騒な真似するわけないよね)
(きっときっと、ひたすら話し込んでるだけだよね)
(メールもへんな女も、誰かの幼稚なイタズラだよね)
(杢太郎さんはアリコくんを巻き込んだとも知らずに、普通に帰ってくるよね)
(帰ってくるに決まってるよね!!)
必死で自己完結しようとした、その時だった。
ドアの向こうから、ドアノブを乱暴にガチャガチャされている。
カードキーのエラー音と、バシバシ何かを叩きつけるような音もする。
(ーーーーえーーーーっなに??)
(怖いよぉ!!!!誰なの?ヤダヤダヤダヤダ)
恐怖にパニクリかかった私に、杢太郎さんらしき声の、イラついた独り言が聞こえた。
「何でっ あかねえんだっ このやろう」
(へ?)
(な、何やってんだろ)
焦り気味の声に、逆に私の方は冷静になってくる。
外に向かってノックをし、声をかけてみた。
「・・・あの。どちら様でしょうか?」
ガチャガチャ音がピタッと止む。
「・・・・・・しぃ?」
部屋の中を窺うみたいに、声を潜めて彼が言う。
「杢太郎さん!」
良かった帰って来た!と、嬉しさと安堵が激しく入り混じった気持ちでドアを勢いよく開けた。
彼はえっ、となぜか驚いた様子で息を引きつけた。
そして私を呆然と凝視したまま、そぉっと部屋に入って、静かにドアを閉めた。
まるで、幽霊だとでも思われているみたいだ。
彼は自失気味に絶句したまま、私の頬を恐る恐る、掌でそっと覆うように触れてくる。
「え、杢太郎さん・・・ど、どうしたの・・?」
彼は、スーツのジャケットを着ていなかった。
「寒いのに、上着どこ置いて来たの・・・」
彼は私の言葉なんか聞いちゃなく、頭、首、肩、もう手当たり次第、アワアワしながら触り始めた。
オロオロと激しく忙しなく、私の体中をペタペタペタペタ確認するみたいに、胸やお尻まで撫で回す。
「ちょ。ちょっといやぁん。何すんのぉ」
私が返した素の反応に、彼はあっすまん!と小さく呟き狼狽える。
慌てて離した両手を、丸腰です、ってみたいに上へ向けた。
そして私の背後へ目をやって、部屋中をキョロキョロ、更にまじまじと、隈なく見回した。
多分私は相当訝しげな表情を浮かべている。
その顔を彼は、いつもの彼には似つかわしくないくらいの不安げな目で、覗き込むように見つめてくる。
「ね、どうしたのよ」
心配したのはこっちの方だっちゅーの!と、正直言えば、ぶちまけたい。
だけど杢太郎さんに、ここまで心配の先を越されたら、もう、何にも言えなかった。
なんだか、嬉しいのと同時に、悪いけど笑えてきてしまったのだ。
あんなに自分で何でもかんでも手配して、私が戻っているのを確認しても、それでも、この有様だなんて。
「そんなに心配だったの。杢太郎さんも大変ねえ」
私が茶化すようにクスッと笑うのを見て、彼は天を仰いで目を閉じ、胸板が大きく膨らむぐらいの息を一つ吸った。
そしてはあ、ともふぅ、ともつかないような長いため息をつきながら、背中を丸めて肩を脱力させた。
そのまま呼吸を二、三度整えて、やっとの感じで上げた顔に浮かぶ表情は、眉を八の字に寄せた、泣き出しそうにも見える笑顔だった。
そんな笑顔のまま私の両肩を握り、ほんのごく小さな、本当に本当に小さな声で弱々しく呟きを漏らした。
「ヨカッタ」
呟きと同時に、柔らかく真綿でくるむような優しさが、私をすっぽりと抱きすくめる。
(あったかい・・・・)
外は冷えていたろうに、シャツは少し湿っていた。
(ありがとう・・・・)
笑ったりして悪かったな、と私は目を閉じて、ゆっくり呼吸を合わせながら彼の胸に身を任せた。
私が考えた悪い妄想は、全て無駄だった。
じわじわと染み入る安心感の中で、私は何にともなく、感謝していた。
ベッドにぼん、と着替えもせず倒れ込んだ彼は、ようやく少し落ち着いた風で、私にゆっくりと話し始める。
「ああ・・・なんか疲れたな、今日は」
「連絡できなくてごめんな、心細かったろ」
「ビックリしたよ、店にアリコが来てたなんてさ」
彼がレストランに連絡を入れた時、私たちは丁度タクシーで店を離れた直後だったらしい。
「うん。あなたが頼んだわけじゃなかったのね。聞いて私もビックリしちゃったわ」
「ごめんね、お店で待ってれば良かったね」
「アリコに、礼を言っとかなきゃな」
静かな微笑みの彼の言葉に、そうよねえと軽く相槌を打つと、心にドクン、と痛みが響く。
「誰から頼まれたって言ってた」
「誰からとか分かんないの。「へんな女」が、私を迎えに行け、って電話を寄越したんだって」
「女・・」
「その前にね、こんなメール来ててね・・」
例のメールを見せると、彼は呆気にとられて口をポカンと開けた。
「なんだいこりゃ」
「どっかのおとっつぁんが、小学生の子供に書置してるみたいな文章だな」
手マメ男のやりそうなこった、と彼が謎の独り言を漏らす。
何だか意味がわからないけど、これ以上追求してもいい事が無さそうに感じて、黙っていた。
「いや、携帯壊れたのは本当だよ、ほら」
放射状にひび割れて画面がずれて中身が見えるスマホを手渡され、私は思わずうわぁ、と声を上げた。
「尾形と、昔馴染みの店に挨拶行ったんだ」
「そしたらそこで、喧嘩に巻き込まれてさ・・」
「その時落として、踏み潰されたんだよ」
凄まじい壊れ方ををまじまじ眺めて、彼を見遣る。
「あっ、杢太郎さんほっぺ腫れてる」
「もしかして、殴られたの・・?」
えっまじ、と彼は体を起こして鏡を見た。
自分の顔を確かめる彼の背中に寄り添って、私もひょっこり鏡に映り込む。
「かわいそうに。痛かったでしょ」
「はは、そうだな」
振り向く彼が私の胸に、ぽふんと顔を埋めた。
「癒してくれる」
