さよなら美しきひと - 1/6

地元の総合大学では、いつも誰かしら職員を募集していた。
研究助手として採用されたわたしが配属されたのは、ある動植物の関連研究室だった。
多分それほど大きくはない部屋の壁は、一面書棚で埋め尽くされていた。

動植物研究というからには何かおどろおどろしい標本なんかが所狭しと並べられているのでは、とわたしは警戒していた。
安心な事に、美しい自然の風景写真が数枚、作業机の前壁に整然と飾られているだけだった。

古い本のインクの匂いがほのかに香る、落ち着いた空間の中に、その人は居た。
静かな部屋に調和する品のいい佇まいに、木彫りのフクロウのループタイがよく似合う。

「素敵ですね、そのループタイ。フクロウちゃんがとっても可愛い」
初対面にも関わらず、思わず馴れ馴れしく話しかける私に
「フクロウはお好きですか」と、紳士の微笑みで返してくれる。
「はい、叡智の象徴ですものね。大好きです」

その人はクスッと笑い、少しツヤのあるそのフクロウの、黒っぽい羽を指で撫でた。
「大好きだって。よかったね、ふぅちゃん」

「その子、ふぅちゃんっていうんですか」
ループタイに話しかける男の人が何だか面白くて、私も思わず笑みをこぼした。

「よろしくね、ふぅちゃん」

そんな簡単なやりとりのあと、姉畑先生はわたしをこの部屋へ、迎え入れてくれた。

「北方の自然生態系」という講義を担当する先生は、最初は当たり障りのない、ごく普通の授業を行なっていた。
だけどなんだか徐々に話は、横道に逸れることが多くなって来たのだという。

それは自分が体験した、いわゆる「忘我体験」に関する話題であった。

地球上全ての生きとし生けるものを愛する先生は、自然の中に身を置くと、ひたすら触れ合いたいという気持ちがムクムクと盛り上がり、やがて自分を飲み込んで行く感覚に包まれるのだと言う。
人してどうかと思われるような内容が、その話題の中には多々含まれたようだ。

一部学生からは、妙な人気が高まっているとは聞いた。
だけど内容がかなり不穏当ということで、学内での立場はどんどん悪くなっていた。
研究室での仕事が三年目に入った頃先生から、大学を退職するつもりだと知らされた。
わたしは他の教授の元で仕事をする気になれず、先生に着いて行くと言った。
先生はとても驚いていた。

その頃の先生は、すっかり狂人のレッテルを貼られていた。
「おかしい」と後ろ指を差し、「変態」と捨て台詞を投げつける人もあった。
でもわたしは、地球の自然をより理解しようと常に勉強に励み、どんな小さなものにも愛情を持って接し、嬉しい時の素直な笑顔がとても可愛らしい、そんな先生の事が、大好きだったのだ。

大学を出ると決まった後、これでもっと持論の考察を深められると、先生は喜んでいた。
それまでの研究方法では不完全燃焼だったのだろう、行動は次第にエスカレートした。

自らの生殖器を奮うのは、初めてではないようだった。
ただ本格的に、積極的に使用し始めたのは、この頃だったように思う。

対象に交わるという、それは先生流の研究方法なんだろう、と思った。
私に余計な忠告をしてくる人たちが現れるようになったが、全然そういうのじゃないんだけどなと思って、気にしなかった。

研究室を離れて、二人だけで暮らす準備をした。
毎日夜遅くまで、荷造りを手伝った。

ある深夜のことだった。
作業の手をほんの少しだけ休めていた私に先生は、ポツリと打ち明けてくれた。

「この美しい世界と一体化したい」

枯れ草を潤す雨の音が、わたしたちを優しく包んでいた。
「そうなんですね」とわたしは先生の目を見て相槌を打っただけだった。
すると先生は静かに目を閉じてわずかに微笑みを浮かべ、何かを確かめたように頷いた。
そしてそのまま、俯いた。

街から少し離れた廃村の、十何年もから放置され朽ち果てる寸前の、廃墟のような建物を借りた。

その小さな小屋の中で、先生の論文を売りながら、生活を始めた。

中には小部屋が三つあった。

入口がある真ん中の部屋を共有スペース兼事務所として使い、その両側にある部屋をそれぞれの自室と決めた。

この小さな建物に、荷物の大半は運び込むことができなかった。
貼ってあった写真も、夏にきらめく釧路湿原のものだけ残して、人にあげてしまったようだった。

先生の持ち物や蔵書の方が、わたしの物より圧倒的に多い。

だけど先生はわたしに、少し広くて日当たりの良い部屋を使うように言った。
ありがたいけど申し訳ないので、事務所も先生の自由に使ってもらうことにした。

わたしは大学にいた時と同じような事務処理と、生活のお世話一般を受け持った。
街へ買い出しに行ったりすると、わたしたちはよく夫婦と間違われた。
だけど先生にとっては、そんな事どこ吹く風の話だった。
わたしは変わり者と言われる事も多かったけれど、いつもこっそりと照れていた。
妻と思われたことを嬉しく思う自分に、驚いていた。

先生と出会って、数えると四年目になる春を迎えた。
事務処理で間違えることはほとんど無くなっていたが、元々苦手だった家事に近い雑事はどうにも上達しないわたしだった。
あまり外に出ない先生へのお食事は、わたしが作れば何も言わずに食べてくれた。
だけどその内、「お茶だけは、本当に美味しい」と、一見褒めているような事を言い出した。
どうも先生なりに何か言いたげな、微妙な雰囲気を感じたわたしは、先生にお料理の本を買ってもいいか聞いてみた。
先生は満面の笑みを浮かべ「そうですね、それがいい」と快諾してくれた。

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