新緑が萌え始め、先生が小屋の周辺の自然を案内してくれるようになった。
「ほら、来てご覧。ここにあなたの好きな」
「はい先生、そこの、小川のとこですね」
茂みの下は天然の落とし穴のように、水が溜まっているだけの場合もある。
ここは安全だよというふうに足で茂みを踏み潰し、先生はわたしに向かって手招きをした。
その足跡を注意深く辿り、先生の待つ小さな川の畔へ降りた。
「可愛い。サンショウウオですね」
「ね。こんなに小さいのに、低温にとても強い。ちょっとぐらいなら」
「ちょっとぐらいなら?」
「体が凍っちゃっても、平気」
「ウソ」
「私はウソは申しません」
ちょっぴり憮然とする先生に、わたしはそうですねゴメンなさいと適当に頭を下げた。
そして早速水面に顔を寄せ、清流を覗き込んでその愛らしさに心を奪われていた。
触っちゃいけませんよ、彼がヤケドしてしまうと言われたのでこっくりと頷いた。
「先生、結論はもう、出たんですか」
「まだ固有種と、断定はできない」
「だけど北海道全体に分布しているエゾサンショウウオとは明らかに違う。ある所見を見つけたよ」
「ホントですか、どんな」
「足の指の数が違うんだ。エゾサンショウウオは前が4本、後は5本。ほらこの子を、ご覧」
「あ・・・・!後ろは、4本ですね」
先生はしたり顔で、無意識だろうかわたしに向かって、エッヘンと胸を張った。
「この湿原に住むサンショウウオは、エゾサンショウウオではない」
「かなりの確率で、固有種だと踏んでいる。きっと大発見になるよ」
「それじゃ、名前をつけなきゃですね」
新種なんて、そう簡単に見つかるわけもない。
私は正直話半分で、サンショウウオの可愛さの前に軽口を叩いた。
「それにしても、女の子なのに変わってますねえ。サンショウウオちゃんが好きだなんて」
深い意味は無いと分かってはいたけれど、わたしは勢いよく、顔を上げた。
その態度が、わたしを怒らせたとでも勘違いの原因になっただろうか。
「あっ、だってその、女の子はね、もっとこう。フワフワしたものや。凛々しくてかっこいいものが。好きなんじゃないの」
慌てた様子で先生は手をワタワタと振りながら、懸命に取り繕うように、不自然な早口で捲し立てる。
「どれも好きですよ。先生もそうでしょ?」
変な事を気にするんだな、と思いながら返事をすると、先生は一瞬息を呑んだ。
そして絶妙な間の後プッと吹き出し、それ以上は何も言わなかった。
動物を間にして話していると、いつの間にか物理的に、体と体の距離が縮まる。
先生の笑顔に寄り添いながらぺちゃくちゃとおしゃべりをするそのひと時は、いつも喜びと幸せに満ち満ちていた。
夏から秋にかけて、先生は少し長く事務所を留守にする。
フィールドワークのためだった。
帰ってくると先生はいつも私に見慣れたちゃめっ気たっぷりの笑顔で、成果を無邪気に事細かく、どっさり披露してくれた。
中には普通に大発見もあり、そういうのは売る論文の題材にしていた。
だけど成果の多くは、とても人様にお聞かせできる内容ではなかった。
自らを使った自然のとの交わいは、加速度的に増えていた。
動物のみならず植物まで相手にした驚愕の冒険譚は、どこもこれもえぐ味の強い内容だった。
しかし、愛する他者と交わることができたと話してくれる先生の顔は、まるで恋に身を焼く少女が未来を夢見ているような、清らかな幸せに満ちていた。
あまりにも嬉しそうで、そしてそれが可愛くて、見ているわたしには本当に良かったですねとしか、思えなかった。
わたしは、先生と一緒にいられるならば、内容などどうでも良かったのだ。
「あなたも、私を穢らわしいと思いますか」
ある日唐突にそう聞かれたわたしは、深く考えず首を横に振った。
相手になった動植物を自分の手で始末していると、話してくれるようになった頃だった。
どうしてそんなことするのですかと、軽い気持ちで聞いてみた。
すると先生は珍しく強い口調で、怒りつけるように言い放った。
「私なんぞと交わった者たちを、そのまま自然界に置いておいてはならないのです」
それ以上の質問を遠ざけるような、それはまるでわたしまで遠ざけるような、キッパリとした口調だった。
少しポカンとした表情を向ける私に、先生はごめんね驚いてしまったねと俯いて、その日は取り付く島もなく、自室にそそくさと籠ってしまった。
だけどわたしはその時、そもそも獣姦の何が悪いのだろうと考えているだけだった。
西欧の神話にはそんな話し枚挙に遑が無く、珍しい事でも何でもない。
浮世絵の世界だって、そういう絵はとても人気があるのだ。
一度だけ、書斎で先生が、情緒たっぷりの艶っぽい浮世絵を見ている現場に遭遇してしまった事がある。
蛸と女性が目合うその絵を慌てて隠そうとする先生にわたしは、そういう内なる欲望は、人間なら元々少なからず持っているのでしょうねと、苦し紛れに声をかけた。
「相手をよく知りたいと思った時、人間は一体、何をすればいいのでしょう」
そう言って照れ臭げに苦笑いし、先生はわたしの言葉を受け止めながら、はぐらかした。
病気には気をつけて欲しいし、相手を無理に始末しているのなら、怪我も心配だった。
けれどわたしは、先生の思い描く世界を、ご自身が納得する形で理解するまで、何も言わずに側に居ようと心に決めていた。
しかし先生はある日、人様の財産である家畜に手をつけ、いつもやっているように破壊行為を犯してしまった。
そして人様をも傷つけてしまい、罪人となった。
わたしは何度か、先生が収監された網走へ、面会を申し込んだ。
しかし応対は曖昧で、別の監獄へ移送されたとか、元々そんな囚人は居ないとか、とにかく先生に会う事はできなかった。
後になって思えば、その時先生は本当に、もう網走には居なかったのかもしれない。
先生がわたしの元に帰ってきたのは、夏がもうすぐ終わる、ある夕暮れだった。
嬉しすぎて、何をどう言ったか全く覚えていない。
ただただ、泣いた。
泣いたまま、お風呂の用意をした。
どこをどう歩いて、先生はここまで歩いて帰って来たのだろう。
いつものようにフィールドワークに出かけた、あの日の荷物も服も全て無くなっていた。
先生の愛する自然は、美しいだけではない。
時に荒ぶり凶暴な牙を剥けば、丸腰の人間などその存在は無に等しいほど抗いようが無い。
ここまで戻る過酷な道中は、野趣溢れるなどという生半可な表現では済まないに違いない。
ボロボロになった橙色の羽織ものを、先生が脱いだ。
その体を見たわたしは、一瞬で体中の血の気が引くのを感じた。
背中から胸までも凶々しく刻まれた、気味の悪い、理解に苦しむ大きな刺青。
繊細で心やさしい先生が過ごしてきた監獄の生活は、わたしの想像など及びもしないほど苦痛だったはずだ。
あげく、こんな傷までつけられて。
わたしは、気絶しそうなほどの怒りを覚えた。
言葉にならない悲しみで先生の手を握ったまま跪き、震えながら顔を見上げた。
そんな私からそっと目を逸らし、先生は表情を隠した。
やがて私の手を取り、両手を合わせて一度だけぎゅっと握り返し、次いでほぐすように、自ら離れた。
「これのおかげで脱獄できたのだから」と先生は穏やかに呟き、わたしの頭を二度三度、大きく円を描くようにゆっくりと撫でた。
そして羽織のポケットから「この子だけは、ずっと持っていたんですよ」と、紐のついたふぅちゃんをしゅるっ、と勢いよく取り出した。
それをわたしの目の前にプラプラとかざし、悪戯な目でニッと笑ったのだった。
私が泣きながら笑うのを見て先生は、
「ああ良かったようやく笑ってくれた」と、自分も苦笑していた。
