さよなら美しきひと - 5/6

薪が、二度目の冬が終わる頃底をつき始めた。
外はこの冬一番の、激しい吹雪に見舞われていた。
それはわたしが記憶する中で、最大級の厳しい強風だった。
朝からずっと外から大きな力にゆすられているように、小屋全体がミシミシ、ギシギシと軋んでいた。
風の音の中に、何か大きなものが剥がれて飛ばされいくような、尋常ではない破壊音が混じった。
そして、おかしな方向から切りつけるような冷気が吹き込むのを感じ、嫌な予感がした。

暖を取ろうと、残り少ない薪を焚べようとした。
そのわたしの目の前に、絶望が音を立てて、落ちてきた。

あの音は多分、煙突のどこかが壊れた音だったと理解した。
暖炉の中に大量の雪が落ち込んでいた。
あまりのことに声も発せず、わたしは火の消えた暖炉の前に脱力してへたり込んだ。
最後の雪がはらりと舞い落ちると、部屋の温もりがどんどん外気に奪われていくのを感じた。

何とか火を復活させようと雪をかき、濡れた灰を床に掃き出したが、暖炉はその機能を完全に失っていた。
慌てすぎ、素手で雪をかき出したのは致命的だったのかもしれない。
手は悴み切り、濡れた床は一層急激に、部屋の暖気を奪っていった。
体ががちがちと震え出し、動きがままならないくなってきた。
そういえばわたしはここのところ食べ物も節約して、碌な食事も摂っていなかったのだ。
(火を・・なんかなんでもいいから、火を)
(だけど、すごく疲れた、体が重い)

手当たり次第の衣類や毛布を何とか被ってはみたものの、それらもまた冷え切っている。
しかしやがて不思議なことに、寒さを感じなくなってきた。
激しい震えを感じていたはずなのに、いつしかそれも止んでいた。

(眠たい)

(せんせいごめんなさい)
(今日戻っていらしても、お部屋をあたためることができません)
(少しだけでいいんで、寝かせて)

 

なぜだかとても暖かい、懐かしい感じの光に包まれ、目が覚めた。
いつの間に、眠ってたんだろう。
顔を上げると光の奥に、更なる光を纏って発光する、人型のようなものが見えた。

そしてやがてその人型に表情が見えることに気づいた時、思わずわたしは叫んだ。
(せんせえっ!?)

待ち焦がれていたその笑顔で人その型は、少しずつこちらに向かって近付いてくるようだった。
光りすぎていて正視も難しく、わたしは目を細めながら先生に話しかけた。

(おかえりなさい先生)
(だけど、すみません、暖炉が壊れて)
(せっかく帰ってきてくれたのに、あったかくないんです)
(ごめんなさい・・・)

今度先生が帰ってきた時は、泣かずに笑って迎えて、抱きしめたかった。
だけど今のわたしには突っ伏した床から頭だけをもたげ、満足に温めてもあげられない情けなさに涙ぐみながら、詫びることしかできなかった。

(何を言っているんですか)
(ここは、とても暖かい)

先生はまるで宙に浮いているような角度から、わたしの頭のそばにしゃがみこんだ。
そしてわたしの頬を包むようにそっと手のひらを伸ばし親指で、目に滲んだものを拭い取った。

(この涙のように、ここはとても、暖かいですよ)

その優しげな声は、耳ではなく頭の中に響いてくるように染み入ってきた。

(そんなはずは・・・)

言いかけて見遣ると、先生は一糸纏わぬ姿なのだ。

(先生、こんなに寒いのにどうしてハダカなの・・)
神様みたいに真っ白に輝く先生からは、ほのかだけど確かに、温かみを感じる。
わたしは上半身を起こし、ごちゃごちゃに絡まった布の塊から這い出した。
そして先生に触れようと、手を伸ばした。
しかしその手は光に包まれるだけで、先生の体を素通りしてしまうのだった。

(あれ、先生、刺青が消えてます。とっても綺麗です)
雲のような光をつかもうと、掌を幾度も握ったり開いたりしながら私が尋ねた。
(そうなんです、目覚めたら無くなってて。まあ、それはどうでもいいのですけれど)

(良かった・・・・)
あの禍々しい、わたしの大嫌いだった刺青が無くなっている。
心底から嬉しくて笑った私に先生は、無言だったが笑顔を返してくれた。
先生は大自然を慈しむ時、こんなふうによく、静かに笑っていたなあと懐かしく思った。

その尊い笑顔を見て、咄嗟に思った。
先生はもしかしたら、自然に帰ったのかもしれない。

(先生、世界の美しさをご覧になったんですか)
(一体化、なされたんですか)

先生の笑顔が、真顔に戻っていくのを見た。
軽く眉を顰めてわたしを見つめたままで、質問への返答は無かった。

(わたしも行きたいです、先生の世界に)
(先生の思う「美しい世界」へ、わたしも連れて行ってください)
(もう待つのは嫌です。先生のそばに居たい)
(お願いです、連れて行って)
(連れて行って・・・・)

(そう言うと思いました)

懇願していると、いつの間にか涙がポロリと落ちた。
その涙を見た先生は、困ったように眉毛を八の字に寄せて微笑んだ。
(あなたなら、きっとそう言ってくれると、信じていました)
(・・・信じて、いました)

念を押すように呟くと、先生の頬にも涙が一筋流れて落ちた。

(だったら・・・)

言いかけて伸ばしたわたしの手に、さっきまで掴めなかった先生の手が触れた気がした。

(だからのこと、できないのです)

優しいけれどきっぱりとした口調で、先生は軽く横を向いてわたしの目線を逸らした。
先生は、いつもいつも、こうだった。
わたしの気持ちをきっと知っていて、わざと聞かないようにして、最後には顔を背けて避けるのだ。

(それは・・・・やっぱり人間が美しく、ないから、なのですね)
(わたしは、先生の理想の世界に、不要なのですね)
(分かりました、もう・・・・・)

しゃくりあげながら拗ねたように言うわたしに、先生は珍しく声を荒げて否定した。

(違います!!)

ビクッとした私の両肩を、先生がつかむ。
先生からは触れるんだ、とわたしは妙に冷静に思った。

(違います、よく聞いて)

先生が真正面から、真剣な眼差しを向ける。

小鳥のキスから、ぎこちない愛撫。
何度かやり直してやっと結ばれた、あの優しい夜の事を思い出していた。

何かを探究するような眼差しでわたしに臨む先生の額に、わたしの額ををコツンとぶつけた。
するとハッと何かに気づいたように、先生ははにかんだ。
その様子が可愛くてつい笑ったわたしに、「なんともむつかしい」と恥ずかしげに先生は下を向いた。
顔の下から、わたしが自分で唇を寄せて口づけた。
そっと唇を離してまっすぐ見つめたその瞳に、戸惑いが覗いたので抱きしめた。
固く強く抱きしめ返され、溢れるほどの温もりに溺れた。

あの時、わたしは明日を信じていた。

(醜い私が浄化されるには、美しい世界と一つになる以外方法がなかった)

(醜いって、何ですか。誰が先生にそんな事を言いましたか)
(先生の何が醜いんですか。醜くなんかないじゃないですか)

食い下がって問い詰めるわたしを、先生は無視するように続けた。

(こんな私でも、世界は受け入れてくれた)
(ここはとても美しいところです。思っていた以上に。だけど)

先生は一呼吸置いて、小さな咳払いをした。

(一度しか言いませんからね)

涙に濡れたわたしの顔を見て先生は、一瞬目を細めた。

(だけどあの日、あの朝に見た)
(朝焼けに照らされたあなたの、あなたの清らかな眠り顔ほど尊くて)
(美しいものは、どこにも無かった)

(あなたと過ごした四季ほど、眩しいものは無かった)

先生は優しく、だけど力強く、そう断言した。

(分かるでしょう。だからあなたを、連れて行くことはできないんですよ)

わたしは流れる涙を振り撒くように、ひたすら頭を左右に激しく振った。
先生の掌が、包み込むように頭をさすってくれた。
先生がわたしの両手をそっと取って握ってくれても、私はただイヤイヤと泣き続けた。
(そんなのダメですついていく。連れてってくれるまで承知しません)

(そんな、あなたらしくもない。子供じみた駄々をこねないで)

(私らしいって何なんですか、私は先生と一緒にいたいから)
(ずっと、我慢していたんです・・・)
昂る感情をぶつけるように言葉にすると、また涙がぼたぼたと溢れた。

(やっぱり、先生の言う美しい世界に、わたしはそぐわなかったのですよね?)
(だからあの時、わたしを始末して下さらなかったのでしょう?)
(ナイフでも、頸っても、殴ってくれても、わたしはなんでも、良かったのに・・・)

感情的に捲し立てるわたしを軽くいなすように、先生はにっこりと、まるで聖母のように清らかな笑みを浮かべた。
そしてふーっと大きくため息をついた。
(あなたを、傷つけたくなかった)
(わたしたちは・・・似たもの同士だったのかもしれませんねえ)

軽く宙を見る姿勢で胸に手を当て、先生は訥々と続ける。

(この世界は不思議な事に満ちていて、中でも自分のことなんて、いちばん、よく分かりません)
(あなたを美しいと、あなたを、思うこの気持ちも)
(この世界とひとつになれて、初めて理解したことなんです)

(美しいあなたを、穢したくはなかった)

(わたしが・・・・美しい・・って・・)
(そう・・おっしゃいましたか、今)

ぼ、と音を立てて体が熱くなる気がした。

(ああもう、何度も言わせないで。恥ずかしいよ)
(もう少し早く分かれって、あなたは言いたいのでしょう)

わたしが熱くなればなるほど、先生はわたしが愛した悪戯っ子のような、可愛い笑顔を向けてくるのだ。

(さあ、そろそろ聞き分けてね)

握られた手の中に何か硬い感触が生まれた。
咄嗟に開こうとした手を、先生が力いっぱい握り込んだ。

(さよなら、美しきひと)
(あなたは、この麗しき世界そのもの)

(どうかいつまでもす こ や か に)

(生、き ・・・)

言葉が終わる前に真っ白く大きな光の塊がすごい速さで、先生の背後から飛び込んできた。
あんなに固く握ったはずの手は、あまりにも呆気なく引き離された。
それはまるで巨大な彗星だった。

攫われていくように、先生はわたしの目の前からあっという間に消え去ってしまった。

(い・・・いや・・・・)
(嘘でしょう先生、行かないで)

「・・・・かないで」
「 行 か な い で !!!」

大声を上げたわたしが目覚めた場所は冷たい床の上、乱雑に引き被った衣服や毛布の塊の中だった。

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