EP.01-02 - 1/2

EP.01  涙ナミダの引退式

その日は、突然やってきた。

「親父さん、俺、今シーズン終わったら引退すんだ」
「・・・・・」
「・・・・・は」
「・・・ハァ!?」
普段あまり取り乱さない私の父が、卵をかき混ぜる菜箸を落として狼狽た。

ここは、あるプロ野球球団の2軍施設にほど近い、小さな飯屋。
ちょっぴり入りにくい雰囲気を醸し出してる、昭和の古臭い建物だ。

私は父が開いたこの店で、短大を出てから働いていた。
母は、私が高校の時に病気で亡くなった。

私が菊田さんに初めて会ったのは、まだ10歳の時だった。
高校を出たばかりにしてはガッチリした体の笑顔が素敵なお兄ちゃんは、あっという間に実力を発揮して1軍とここを行き来するようになり、やがて寮を去っていった。
ただここしばらく若手の成長があり、自身が負った過去の大怪我の回復も思わしくないのか、1軍の出場機会は激減していた。
シーズンを通した2軍暮らしは徐々に長くなっていて、一昨年くらいからもうほぼほぼ1年中、こっちで練習を続けている。

「菊田さん、寮のご飯の方が美味しいんじゃないの」
「俺はこっちの方が落ち着くの。昔から知ってる場所だしね」
「ここも、前みたいに若い子あんまり来てくれなくなったわ。コンビニもいっぱいできたしね」
「もったいねえなあ。そういえば、他にも店ってあったよな。みんな潰れっちまったのかい」

菊田さんがプロ入りしてから20年経っている。
菊田さんが1軍で活躍している間に寮も新築され、施設に昔の面影は無いんだそうだ。
近辺もだいぶ様変わりし、同業のお店はほとんど廃業してしまったのが現状だ。

「ここのきんぴら、昔と同じ味だよ。懐かしいよな、美味い」
「そうなんだ。良かったね、お父さん」
「何言ってんだよ、これしぃちゃんが作ってんだろ」
「あっ、うん・・・そ、そう。そうなんだけど」
「ここにいればしぃちゃんの飯食えるもんな。最高だよ」
「ありがとう。そう言ってくれるの菊田さんだけよ」
と返事した側から、昼間っから酔っぱらったお客さんがご機嫌さんで叫ぶ。
「しぃちゃんの飯はさいこうさねーーうん」
菊田さんが苦笑する。
「・・・・俺だけじゃねえじゃん」
「やぁだぁ。営業妨害だわ」
私がクスクス笑っていると、お客さんは尚も私に向かって叫び続ける。
「しぃちゃん好きだよー。あいしてるよー」
「あららー偶然ね。私もよ」
私が笑顔で返すと
「変わんねーなあの人は」
菊田さんも微笑みで、お客さんに目を向ける。
毎回私は、そのお客さんと同じやりとりをするのだ。

「もう何十回も見たよね。思い出すわぁ最初」
「いいだろもう、その話は」
「だって嬉しかったんだもん。助けてくれようとしたのよね」
「あの人覚えてないんだもんな。そん時の事も、俺の事も」
「この辺の人たちはだいたい関カムファンだけど、たまにはああいう野球全然興味ない人もいるから・・お昼は、野球の話は一切しないようにしてるしね」
「んじゃ俺がここにいるのは反則プレイだな」
「いいのよ。いつも注目されてちゃ疲れることもあるでしょ」
「もう俺なんて忘れ去られてるって」
「なに言ってんのーーーーーー。菊田と言えば・・・・」
「な、野球の話はしねえんだろ」
「・・・ん」

「しぃーちゃーんおあいそ。明日けっこんしようねー」
「何よぅ今日じゃないの」
「今日はあいにく金がね〜、ないの!バイバイ!」
置かれた500円玉を、笑いながら菊田さんが私に手渡してくれた。

「慣れたもんだな」
「気持ちよく帰ってくれるなら、それが一番ね」
「楽しいねえ酔っ払いは・・・たまには飲みてえな、俺も」
「大変ね、東京と行き来だと。向こうで飲んでても、ゆっくり出来ないもんねえ」
「そうだな。20代の頃は徹夜で飲んでも何とかなったけど」
「あらら。まだまだこれからじゃないの」
「いやーもう無理効かねーわ。泊まってこっちで、飲むかな〜・・」
「ふふ、そうね。私も菊田さんとなら飲んでみたいわ」
「・・いいねぇその営業スマイル」
「もう。変なこと言わないで。これが普通なのよぅ」
「そうやって困りながら笑ってっけど、それも営業用かい」
「やあねえ、今のはホントのスマイルよ」

「・・でもまあそうねえ、その「営業スマイル」をね、自分に都合よく誤解するお客さんは結構いるけど」
「普通に笑ってる時そんな風にからかうのは、菊田さんだけよ。意地悪ねえ」

「ふぅん」
「・・・それは今度こそ俺だけ、かな」
「えっ?」

夜になると店は、飲み屋営業になる。
応援団も兼ねている地元商店街のおじさんたちが、選手たちのプライベートを酒の肴にしてここで大討論会を繰り広げている。
おじさんたちにとっては二軍施設で暮らしている選手なんて地元民そのものの扱いだし、一軍選手の事だってまあ情報通がいて、話題には事欠かない。
選手たちの身の上身の下その他モロモロのお話は一応それなりに、チームの行末を心配してのお話なんだ・・って事らしいが。

飲みたい、と言った菊田さんに、夜は絶対に来ちゃいけないと釘を刺しておいた。
酔っ払いのカオスでどうしようもないと。
菊田さんは興味がありそうだったけど、ファンばっかり来るから本当に大混乱になると話したら、諦めたのか残念そうな顔をしていた。

私はこの中で、菊田さんが東京で数々の浮名を流しているのをずっと、聞いていた。
菊田さんの彼女と教えられた女性(ひと)は皆大人で綺麗で、中には有名人もいた。聞いてるだけでこの数なのだから、知らない彼女だっていっぱいいるだろうという事は容易に想像できた。
素敵な女性たちと付き合って、でも別れて。

今は独り身だと言うその人は、私の作ったご飯を、美味いって食べてくれてる。
10歳だった私の憧れのお兄ちゃんは、大人になった私の前に、都会の男の色気を纏って帰ってきた。
私は話すたび、本当は、頬が熱くなるのを隠すのに精一杯だったのだ。
いつも菊田さんが帰るのを見送った後そっと俯く私を、父はどんな気持ちで見ていたんだろうか。

シーズン最終戦は菊田さんの引退試合を兼ね、試合後引退セレモニーが行われる。
あの菊田の引退式だよって事でウチも店を早く閉めて東京まで応援に行くことを許されて、東京の私設応援団に混じって「菊田さんありがとう」と書いたボードを持ちライトスタンドに座っていた。

「菊さんよ、これからどうすんのさ」
「まだなんも決めちゃないの。ユニ着るか、背広着るかも決めてない」
「引く手数多すぎて?決めらんないってかぃ」
「はは。オファーもらえなけりゃ。自分で決められる話じゃないさ」
「まさかまさかでショ。名プレイヤー菊田サンともあろうお方がさぁ?」
「茶化さないでよ親父さん。・・まあとりあえず、拠点は東京に置こうかと思って」

昨日の、菊田さんと父との会話だ。
菊田さんはもう、店には来なくなる。

電光掲示板に、菊田さんの20年の活躍が映し出される。
数々の思い出にファンたちは酔いしれた。
入団時の初々しい姿。初めての1軍出場。打点王タイトル獲得ほかそして、そして・・
「ファンが決めるベストゲーム」の1位は、9割方が当然選ぶだろう2014年の日本シリーズ最終戦だった。
誰もがサヨナラを期待していた1点ビハインドの2アウト満塁。
彼が振り抜いたその一瞬、大歓声がウソのように消え、球場全体が生唾を飲み込んだ。
滞空時間の長いその打球の行方を一瞥もせず、彼はバットをぽん、と投げて1塁へ数歩歩き出す。
やがて地響きのような大歓声が再び球場を揺らした時、彼はゆっくりと走り出し、セカンドベース上で固く握った右の拳を力強く、天に向かって突き上げた。打球はバックスクリーンを超えて、どこかへ飛んで行っていた。

明るく華があって、どっか泥臭いのにカッコいい。彼のようなプレイヤーは、この先そうは出てこないだろう。
数え切れない守りの美技が連続の後・・・客席が凍りつく。
VTRが、怪我のあの日に追いついたのだ。
しかしその後の復帰までの努力と葛藤の日々が流れ始めると、客席は再び熱い声援に包まれた。
みんなで歌う、最後の応援歌が流れる。
私も周りのおじさんたちと一緒に
「菊田ーーーーー!!や” め” る” な”ーーーーっ!」
と涙と鼻水で顔をベシャベシャにしながら野太い声を張り上げていた。

引退セレモニーでは、お父さんをねぎらって家族が花束を送るシーンがクライマックス・・というパターンが通常だ。しかし家族のいない菊田さんには、杉元くんたちが花束を持って現れた。
球場内に、菊田さんの「チッ、てめえらかよ」という失笑がマイクに漏れて大爆笑に包まれる。
だけど杉元くんの「きくたさぁん・・・」という涙声が次いで漏れて来て、そこで球場全体の涙腺が決壊してしまった。
もう、どこを見てもみんな、ベロンベロンに泣いている。
なのに当の本人の菊田さんだけは、本当に、笑っていた。
これが本当に強い男の笑顔だ、と思ったらまた泣けてしまった。

セレモニーがもうすぐ終わる。
菊田さんの挨拶が終わると、静まり返っていたスタジアムにはまた物凄い声援が溢れ始めた。

「もう・・会えなくなるんだな」
「きっともう、退団したら」
「東京行ったら無関係なんだろうな」

寂しくて寂しくて、辛かった。
この大歓声の中なら、言っても、大丈夫かもしれない。
この客席にいる間は、私は応援団の一員であって、菊田さんの「しぃちゃん」ではない。
私はただの応援団員なんだから、何言っても許されるよね。
ありったけの大声で、叫んだ。

「菊田さーーーん!」

「菊田さーーーん!!」

「・・・好ーーーーーーーーきーーーーーーーー!!!」

・・・・言葉にした途端、泣き尽くしたと思ってた涙が信じられないほど溢れて、私はその場に崩れ落ちてしまった。

不意に肩をポンポンと叩かれる。父だった。
「・・・・あいつは、やめとけ」
ため息混じりに一言言った後、父は
「菊田ーーーー!この食い逃げ野郎ーーーー!!」とヤジ?を飛ばした。
お、お父さん、人聞きの悪い・・
私、菊田さんと何かあったわけじゃないんですけど・・

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