EP.02 サヨナラならせめて
午後3時すぎくらいの事だったろうか。
これからの事で色々忙しくしているだろう菊田さんから、店に電話がかかってきた。
今日が定休日なのは知っているはずだ。
中途半端な時間で飯が食べられない。どうにかならないかとの事だった。
私は、聞かれた事以外まで、返答した。
「大丈夫よ。今日はお父さんいないから」
程なくして菊田さんが「いやー腹へった」と苦笑いしながら引き戸を開けた。
多分もう、こんな姿を見る事はない。会えない、と諦めていた。
だから嬉しくて仕方がなかったが、いつもと何ら変わらない接客をした。
「今日明日は商店街で温泉旅行なのよ。その辺のおじさんたち大挙して出かけて行ったわ」
「面白そうだな。俺もついてけばよかった」
「だから大騒ぎになるってばそんなの」
他愛もない会話が楽しい。
しばらく昔の事や、試合をここで見ていたお客さんの様子など話して笑っていた。
バッターボックスの菊田選手はいつも、相手を見つめる冷静な視線が印象的だった。
たまにうっすら浮かべる笑みには迫力があって、試合中なのに色気がビンビンと伝わってくる。
ここにいる菊田さんは、少しお茶目な話し方。心地いい低い声。笑ったあったかい眼差し。
一度出会ってしまったら誰もが、その魅力の虜になるだろう。
やっぱり好きだなあ。
これは相当にモテたんだろうなあ、本当にかっこいいもんなあ、と、全国区の有名人との夢のひとときを楽しんでいる・・・
そんなつもり、を、決め込んでいた。
「暗くなってきたね。電気つけるわよ」
私が紐に伸ばした手を、大きな手が握り止めた。
不意の事に体を硬らせた私に、その手の持ち主は、問いかけた。
「なあしぃちゃん」「・・・俺のこと、好きなんだろ?」
ド直球で攻められ、全身の血が沸騰する思いだった。
好き、好き、好きという言葉がただただ体中を駆け巡った。
けどハイと言っちゃいけないだろうし、いいえは、そもそも違うし。
返事できずに菊田さんを、ただただ怯えたような目で見つめた。
「なんだよ、人違いかよ。だったら俺、無茶苦茶恥ずかしいじゃんか」
「俺のこと好きって叫んでたの、しぃちゃんじゃないのかい」
私はあの後、ニュースとか悲しくて全く見ていなかった。菊田さんによると、私の声は、放送にのって全国に流れていた、らしいのだ・・。
「私だね・・叫んだ、私・・でも、かすかだったでしょ?よく分かったわね・・」
恥ずかしくて消え入りそうな声で答えると、
「俺がしぃちゃんの声聞き違えるわけないんだよ」
そう言って、菊田さんは私の手の甲にキスをした。
「・・嬉しいんだよ」
それは生涯聞いた中で一番、甘いささやき声だった。
菊田さんの左手は私の前髪をかき上げ、キスは額へ。そして目元へ。
やがて厚い掌が、私の頬を包み込んだ。
耳で溶ける媚薬に身をまかせながら、私は唇でキスの続きを受け取った。
気がつけばあたりはすっかり真っ暗で、外灯の薄明かりが店の中にほんのり差し込んでいた。
菊田さんの求めるままに唇を貪られ、しかしいつしか自分からも応え、求め始めていた。
小上がりに倒れ込み体を絡ませ合っていたら、衣服は徐々に剥がれ、お互いの肌はあらわになっていた。
背中をがっしりと抱きこまれながら、一方で掌は入念に内腿を撫で上げる。
やがて下着の間から指が進入し、私の奥を探し始めた。私は体をよじり、自ら窮屈な下着を取り去った。
無骨な指が、私の切ない部分を見つけ当てる。私がたまらず声を上げると、その部分をさすりながら更に隙間をなぞり、ゆっくりと押し拡げた。
自分でも、その場所がもうじっとりと濡れているのが分かった。
「はぅっ・・・ん」
荒くなった吐息ともに、菊田さんの首に腕を回した。指が割って入ってくると、私の腰は無意識にそれを迎えるように浮き上がっていた。
何本かの指が私を丹念にほぐし始める。その間菊田さんの唇は私のそこかしこを這い回る。
時に舌は私の絡めとられたそれと共に、熱情の糸を引いた。
指は更に熱さを増す。私の熱さもまた、その指に絡みついている。
押しては開き、ひいては擦り上げ、また入っては奥に触れてその動作は、私自身の昂りを確かめるようでもあり、自分がこれからここに入るよと、宣言しているようでもあった。
「しぃちゃんすげえよ」「吸い付いてくる」
「や・・・ん 言わないでよ、そんなの・・」
長い長い前戯が続いた。菊田さんの逞しい肉体が、私の体のすぐそこまで来ているのを感じる。慣れない状況と、それに、少し怖さも生まれてきた。何故なら・・
菊田さんの裸体が、薄明かりに浮かび上がる。
(・・・・・・っきい・・・)
何となく、当たる感触で察しはついていたのだけど・・・
一瞬ビクン、とたじろいだ私に気がついた菊田さんは
「しぃちゃん」「・・・もしかして、初めてかい」
私は首をちょこちょこと横に振り、
「ううん・・そ、そうじゃ・・なくて」
私の言葉を遮るように菊田さんがかぶせて謝ってくる。
「失礼だよな、ごめん。ごめんごめん」
「違うの、ただ、その」「大きくて、お、驚いちゃって」
私が思わず口に出した本当の事に、菊田さんはその鍛え上げられた雄の肉体に不似合いなほどの、可愛い困り笑いを見せてくれた。
そして私の顔に近寄れるだけ寄り、目を覗き込んで
「初めてのわけ・・ねえよな」
「それはそれで、妬ける」
と呟いた後、深く私に口付けた。
体中を弄られていた時以上の、激しい快感の衝撃が私の胸を一撃した。
唇だけで一つに蕩け合う感覚に、私の恐怖心なんかは跡形もなく、闇にあっさりと溶け落ちた。
彼を迎え入れた瞬間、このまま死んでもいいと思った。
しばらく余韻にひたりながら、後ろから挿入ったまま抱きしめられ、横になっていた。
思い出すのは掴まれた胸に残る掌と指の感触、私の両足を担ぎ上げた力強さ。激しい突き上げに意識が飛んだ頃、今度はゆっくり全体を擦らせるように、何度も、何度も私を掻き回した。私もまた腰をくねらせ、制御できないわななきに、体を弾かせ続けたのだった。
けれど、いつまでもこうしているわけにはいかない。
やがて菊田さんは私の首筋にキスし、体から離れて行った。
私も立ち上がり、昨日の残りのお吸い物を温め始めた。
二人はすぐに、昨日の夕方のポジションに戻っていた。
飯はいいよ、朝になったら向こうで食べるからと菊田さんは言い、それでもお吸い物をあったけえな、と美味しそうに飲んでくれた。
「しぃちゃんはさ」「しっかりしてるから」
一呼吸おいて
「親父さんも、安心だろ」と普通の、本当に普通の声でそう言った。
菊田さんの意図は分からないけど、とにかくそれは
(俺についてくるなんて、言うなよな)という事だと私は、思った。
私がここを離れられないと知ってて言うんだったらちょっとひどいな、と思った。
背を向けて返事をしないでいると
「なあ、東京なんてさ」「電車で40分だぜ」
それは分かっている。でも、これから私たちの接点は、ほぼほぼない。
「一生の別れみたいに思ってないか?」
そうなのだ。それぐらいに思っている。
この街はもう、菊田さんの帰る場所ではなくなるんだから。
「別に・・・」と振り向いたら、こぼれた涙を見られてしまった。
菊田さんは夜が明ける前に、また来るよと私の頭を撫で、店を出て行った。
私は、余計な期待など持たないようにしようと自分に言い聞かせ、いつもと同じ朝を迎えた。
「菊田 2軍打撃コーチに就任」と地元紙が伝えたのは、それからほんの1週間後の事だった。
新聞を見ながらお父さんが「菊田決まってねーっつってたけど、ありゃウソだな」とかブツブツ言っている。
「正式発表してない内は、言っちゃダメなんじゃないの」
私は内心、目眩がするほど湧き上がっていた。
「若い子たちを」「たくさん、連れてきてくれるといいねえ」
はぐらかしているつもりなのに、なぜかお父さんはこう言い放つ。
「お前。あ い つ は や め と け よ」
「何言ってんだか」と笑い飛ばした・・けれど。
・・ああ。
また来るよって言ってたっけ。信じていいのかな。
だったら次から、どんな顔をして菊田さんに会えばいいんだろう。
