尾形くんは不思議な子だった。
まれに何かの間違いで、店に関カム選手が紛れ込んでしまうことがある。
店に溜まる商店街のおじさんたちにとって、あの店は、選手に聞かせられない話がおおっぴらにできる、ちょっぴりえげつない場所だった。
次から次へと繰り出される排他的な話題の中で、選手はいづらくなってしまう。
大体ムードが冷え切って、後味悪くその場は終わる。
だけど尾形くんだけは違った。
尾形くんは大卒2年目であまり有名でもなく、すぐには選手だと気付かれなかった。
一見さんに厳しいおじさんたちが、少し飲んだ後に気がついた。
煽っても嫌味っぽい話にも、全然乗ってこない。
おじさんたちの球団トークに尾形くんは人懐こく笑い、穏やかにニコニコしながら全てを受け入れていた。
その内おじさんたちも、「尾形気に入った」ってなってきて、最後は結局尾形くんの応援歌まで作り始めた。
大合唱で締まったあの日を、彼は忘れないで居てくれてるだろうか。
「急にどうしたの、尾形くんなんて」
彼はそれきり、店には現れなかった。そしてそのオフ、突然現役を引退した。
「あいつと組む事になったんだ」
杢太郎さんが素っ気なく答えた。
引退後の消息は不明だったが、2、3年前球団スタッフ欄に「スコアラー」として公式で発表された。
あら球界に復帰したんだわ、大きな病気でもしてたのかしら・・と案じていた。
「なんでまた。尾形くんって現場に出てないじゃない」
ひとつ息をついて、杢太郎さんが説明を始めた。
「尾形はスコアラーだろ」
「先乗りして敵チームの情報を集めて、それを分析した結果をチームに提供する仕事をしてた」
「引退して2〜3年は非公開だったけどその間は見習いだっただけで、ずっとやってたんだよ」
「へえ、そうだったんだ」
「あいつ何ヵ国だか外国語、ペラペラなんだと。で、向こうで情報収集担当ってなったらしい」
「尾形くんって頭いいんだもんねえ・・・」
尾形くんは、名門T大学出身だ。
ドラフト指名された時、既に大手広告代理店に就職が決まっていた。
なのにそれを蹴って、プロ野球選手になった。
だから2年で引退なんてと、その時はかなり話題になったのだ。
「でもそれで尾形くんとあなたと、組むって、何を・・?」
素朴な疑問に彼は
「俺たちの仕事はそれぞれ、コーチングのコツ、スカウトのコツとかを習う事」
「それは、ある意味表向きで」
「その中で、メジャーリーグとの繋がりってかさ、パイプ作りもして来るよう言われてるんだ」
「現場と、フロント。それぞれからアプローチ、って事で俺たちに白羽の矢が立ったのさ」
「なんか雲を掴むようなお話ね。具体的な仕事内容が、ピンと来ないわ」
「その分、俺は楽しみだけどね」
そうだった。この人はいつも前向きで、想定外の事が起きても物怖じしない。
ボーイズたちには気の毒だけど、球団の人選は100%正しい。
彼はもう新しい世界、海を超えた彼方を見据えて、ワクワクしているんだろうな。
私は、彼に心配なく楽しくアメリカへ旅立ってもらう事を、まずは優先しようと思った。
だけど杢太郎さんはこの後、もう一つ任務が言い渡されることになる。
いやきっと、そっちの方がメインだったのだろう。
この時はまだ、何も知らなかったのだ。
4月に入って、彼はひたすら忙しかった。
毎日遅くまで、ファームに残していく二軍の選手とコーチたちのために、引継ぎ書や動画を作り続けていた。
ゴールデンウィーク明けに、彼は単身で渡米する事になった。
球団は、私が彼について行くのなら費用は出してあげると言ってくれたそうだ。
だけどいきなり渡米となると、その為にしなきゃならない事が多すぎる。
すぐには無理だと、私が結論を出した。
愛されて、やりたい事やって、暮らしに何の不自由もなくて。
幸せすぎる日常を送っているのは百も承知だ。
(どこへでもついて行こうって思っていたのに)
(現実問題、こんなもんか・・・)
そんな風に思いながら、私の結論を告げた。
彼は分かったよと笑って、いつものように甘く熱く、とろける夜を私にくれた。
彼との幸せな毎日が、いきなりなくなる。
本音を言えば、気が遠くなるほど辛くて寂しい。
(自分で、決めた事なのにね・・)
とりあえず、冷蔵庫にメモを貼った。
* 出発 5月9日(水)
* 10日臨時休業 11日普通営業
* 杢太郎さん帰国予定 7月20日くらい(オールスター戦前)
* サンフランシスコ 時差16時間(日本の方が進んでいる)
開店 11:00 → サンフランシスコ 前日の 19:00
閉店 14:00 → サンフランシスコ 前日の 22:00
(私がうちに戻る頃、ちょうど杢太郎さんは寝なきゃならない時間なんだな・・)
(そして私が仕事してる間、ちょうど杢太郎さんのお仕事は終わる頃なんだろうな・・)
沖縄の時もそうだけど、基本杢太郎さんとは用事がある時だけ連絡を取っている。
不安じゃないとか、寂しくないとか言えば、勿論ウソだ。
もし約束すれば、きちんと守ってはくれるだろう。
だけどその分彼の自由を奪ってしまうと思うと、私の方がやりきれない。
私の事なんて構わずに、自由に仕事を楽しんでいる彼が、私は好きなのだ。
5月に入ったばかりのある日のこと。
帰宅するなり憮然としてソファにドシっと腰を下ろす彼に突如、問い詰められた。
「しぃ、尾形ってさ」
「店で飲んだ事あんの」
「俺そんなのありえねーっつったんだけど」
「あいつ言い張るからさ・・」
私も驚いた。
「えーっ、尾形くん、覚えててくれたんだ」
忘れられてなかった嬉しさは、私の声を弾ませた。
「あん?」
そしたら杢太郎さんは、予想もしなかった怖い声で
「・・・しぃはさ、俺には絶対に来るな、って言ってたよな」
「なんで俺は駄目で、尾形は良かったんだ」
「説明してくれ」
え・・・そ・・・そんなに怒る?
「だって状況が・・・違うじゃない・・」
「じゃあ何が違うのか説明しろ」
「そんな風に言われると説明したくなくなる・・」
私はただ、1回だけ来てくれたお客さんが覚えててくれた事。
懐かしい昔の事を思い出してくれる、そういう人が見つかって嬉しかっただけなのに。
「おい、怒らせたいのか」
頭ごなしに怒られている感じがしてちょっとムカっと来た私は、強い調子で反論した。
「杢太郎さんこそ、どうしてそんなにキツい言い方するのよ」
「状況が違うって言ってるでしょ。尾形くんは勝手に来たのよ」
「それで楽しく飲んで帰ったんだから。それが、何か悪いってでも言うの」
一層語気を荒げて、彼は大きな声で私を責めるように問い詰めた。
「尾形を庇うんだな、そんっっなに楽しかったのか」
いつもは相容れない選手とおじさんたちが、最後は一緒に飲めや歌えやになったのだ。
私は父と、その輪の中で彼らを笑って見ていた。
私にとっては、大事な思い出なのだ。
それをどうしてそんな真っ向から、忌み嫌うみたいな言い方されなくちゃいけないの。
嫌味ったらしく、私は怒りをあらわにして返事した。
「楽しかったわよ、そ れ で?」
「しぃ!!」
彼はテーブルが壊れそうなほど音を立てて拳を打ちつけ、私を威圧するような怒声を上げた。
彼のあまりの剣幕に流石に私もビクッとし、思わず怯えた目で彼を見返した。
「・・・・・・悪い」
彼は自分の額に右手を当てて、何かを振り払うような仕草で頭を左右に揺すった。
「・・・・頭冷やして来る」
そう言い残して彼は、足早に部屋を出て行った。
ほんの30分ぐらいだったが、何時間も待ったような不安な30分だった。
彼は、アイスをたくさん買って帰ってきた。
テーブルの上に、コンビニ袋から10個ぐらいのいろんなアイスをゴロゴロとぶちまけ
「好きなの食え」と言い残し、私に背を向けて着替えを始めた。
「・・じゃ、じゃあ、これがいいな・・しろくま」
「一番うまそうなやつ選んだな」
「あ。杢太郎さんもこれが良かった?」
彼が私を振り返って、ニカっと笑う。
「半分コするか」
そう言いながらいつものように、私の頭をわしゃわしゃ撫でた。
このまま戻って来なかったらどうしようかと思った・・・・
・・・ホッとして泣きそうだったが、我慢した。
アイス半分わけしていると、不意に背後から杢太郎さんが、私の手の上に自分の手を重ねてきた。
「ど、どうしたの」
「しぃ、指輪・・って、どこにある」
結婚指輪は、買っただけで二人とも着けてはいなかった。
「寝室の・・鏡の下の引き出しに、しまってあるけど」
彼は見つかった指輪をテーブルに並べ、無言でアイスをもりもりと食べた。
その後小さい方のリングを手に取り、もう一方の手で私の左手を一旦握りしめた。
ゆっくりと私の薬指に指輪を差し込み、そして大きい方のリングを私に手渡して
「ん」
とだけ言って、私に向かって自分の左手を突き出した。
そっと指輪をはめ込むと、彼は私を抱え込むようにして、無造作に抱きしめた。
アクセサリーなんか大嫌いな人だから、自分から指輪をつけるなんて思いもしなかった。
徐に彼は、感情のまま嵐みたいな口付けを、無茶苦茶に浴びせてきた。
正直、私はそれを驚きの気持ちで受け止めた。
ベッドの上で、私は左手を常夜灯の薄明かりにかざし、逆光に浮かぶ指輪を眺めていた。
思えば結婚後、指輪もそうだし、式もしないし旅行もしない。
結婚と言っても儀式のようなものは何もせず、なりゆきまかせで一緒に生活を始めた。
毎日のように顔を合わせ、いつしか身近な存在になっていた。
お互いにとってそれは普通で、自然な事だった。
眠っていたはずの彼が、体を横向きにして私を抱えるようにして私の左手の横に、指輪をつけた自分の左手を並べてかざしてきた。
「誰にも誓わないで、指輪交換しちまったな」
そういう事気にしない人かと思っていた。
「眠れ・・ないの?」
「しぃだって」
私は彼の手を撫で握って、杢太郎さんの胸に顔を軽く埋めて話し始めた。
「ねえ杢太郎さん」「説明になるかどうか分からないんだけど」
「うちのお店ってね、夜はね、地元のおじさんたちのたまり場だったの」
「それは、まあ、知ってるさ」
手を下ろし、彼は私の肩口に掌を当てた。
「多分、杢太郎さんの思うような愉快な所じゃないのよ」
「勿論、みんな関カムを応援してたわ」
「だけどほとんどは選手やフロントのゴシップや、スキャンダルの話ばかりで」
「えぐい話や、他じゃ漏らせないような話をここで吐き出すって、そんな店だったのよ」
「口汚い話も多かったけど」
「それでも」
「・・・・おじさんたちとってには、聖域みたいなとこも、あったのね」
「たまになんかの間違いで、まだよく事情を知らない若い子が店に紛れ込む事があって」
「・・・おじさんたちは排他的だから」
「喧嘩になるか、険悪になるか、ほとんどそのどっちかだったから」
「昼のお客さんだった子も、それきり来なくなっちゃったりして・・」
「杢太郎さんが昼によく来てる事は、みんな知ってたと思うわ」
「あなたがこっちに来る前は、ずいぶん、おじさんたちの酒の肴にされてたのに」
「あなたの話を、私の前でする人はいなくなった」
「私は、お店を守んなきゃいけないから」
「・・・・・絶対に、絶対に来て欲しくなかったの。何が起きるか分かんないし」
「ちょっとした事で、当たり前の日常って、なくなる事・・」
何故か少し、涙が出そうになる。グスッと、鼻をすすった。
「・・そういう事って、あるから」
胸に顔をぎゅうっと埋めると、彼は包み込むように私に腕を回した。
「あんなとこで飲める人の方がおかしいのよ」
胸の中で、絞り出すように呟いた私に彼は、
「俺を守ってくれたのか」
くすっと笑って、髪をくしゃくしゃしながら私の頭を撫で回した。
「そんな偉い子じゃないのよぅ」
涙を彼の胸でこすりながら、首を横に振った。
「私の・・自分のためだもん」
話していると、胸が熱くなった。
それはまだお付き合いなんて夢のまた夢だった頃の、胸を締め付けるような切なさに似ていた。
「あなたを失わなくてよかった」
「・・ん。分かったよ。ありがとうな、しぃ」
このまま、片時も離れたくなかった。
彼はいつまでも、私の髪を撫で続けてくれていた。
