翌日のお昼、黒シャツにラフなジャケットの、都会的な雰囲気が人目を引く男性がお弁当を買いに来た。
どちらからいらしたのかしら、と思いながらお弁当を手渡すと、その人は
「ここで、食べて行けるんですか」と聞いてきた。
「あ、ごめんなさい。イートインですとお会計が変わってしまうんですが・・」
「かまわないですよ。おいくらですか」
「ありがとうございます。少々、お待ちくださいね」
私は会計を打ち直しながら、丁寧で落ち着いたこの話し方に心当たりを感じていた。
テーブルにお茶を出し、
「あの・・・人違いだったら申し訳ありません」
「尾形くん・・でしょう?」
「分かりますか。お嬢さん」
うちの親子を「ご主人、お嬢さん」と呼んでいた尾形くんは、穏やかに笑みを浮かべた。
「あら、よくいらっしゃいました・・なんかこの度は・・」
挨拶しかけたところで、スマホが鳴った。
(あ、杢太郎さん)
電話に出るなり、慌てた様子で彼が話し始める。
「尾形そっちに向かってるらしい。適当に帰して」
「・・もう、来てるけど」
うっ、と変な呻き声が聞こえた後、彼は今からそっち行くとなぜか小声で私に告げた。
「尾形くん、今から菊田が来るそうです。どうぞ、ごゆっくり召し上がれ」
すっかり垢抜けた尾形くんの姿に、私もついつい緊張してしまう。
「この辺は随分と様変わりしたんですね。お嬢さんだけお変わりない・・」
「・・変わらず、お綺麗です」
そんな言葉も嫌味なく、似合っているから不思議だ。
「変わってないわけないでしょ、来てくれたのはもう6年も前じゃない」
「尾形くんは、ずっと東京にいたの?すっかり垢抜けちゃって・・とってもいい男になったわね」
私が冗談ぽく笑うと、尾形くんは今流行の髪型をした頭を掌で撫でつけて、私の目をじっと見つめた。
「やだなお嬢さん、俺にとってはね」
「ここにいた2年間の方が、幻みたいなもんなんですよ」
「俺は大学も、ずっと東京だったんで・・」
少し低くて、ちょっぴり色気が漂う甘い声だ。
「ご主人が亡くなったんですね。まだお亡くなりになるような歳じゃなかったと思うんだけど」
「よく、ご存知ね・・一昨年の2月にね、突然」
「ここで」
何気なく、厨房を振り返りながら私が答える。
「そうですか」
「じゃあこのお店には、ご主人の魂が宿っているのかな」
尾形くんの方に向き直ると、彼は穏やかな笑顔で私を見つめていた。
「そんな風に言ってくれるとなんだかかっこいいけど。実際はただの事故物件よ」
「お嬢さんは厳しいな。ご主人が泣いてますよ」
適当な冗談をやりとりしながら談笑していると、杢太郎さんが息を弾ませて店にやってきた。
(ずいぶん走ってきたんだ・・)
「おい尾形なにお前勝手なことしてんだ」
一息にまくし立てる杢太郎さんに、尾形くんは
「何って・・飯食ってるに決まってるじゃないですか」
「杢太郎さん、どうかしたの?・・はい、お茶飲んで」
杢太郎さんがお茶をごくごく飲んでいる間に尾形くんが話す。
「実はね。昨日の夜もこちらに来たんです。ちょっと飲みたくなって」
「だったら俺に言え。どこでも連れてってやるから」
「菊田さんはこの辺の店なんて行ったことないでしょ」
「・・・でもちょうど良かった。菊田さんに伝えておこうと思ってた事もあったんで」
もうすぐ2時。閉店の時間だ・・
「良かったら、お話ならここでどうぞ?・・私は、奥にいるから・・」
厨房からお手洗いを通り過ぎると、そこは父と私が暮らした居住スペースだ。
部屋の調度はそのままなのに、人気が消えた部屋は殺風景に感じる。
私は小上がりと茶の間を仕切る壁に、背中をもたれさせた。
彼らの、話し声が聞こえる。
父が、人払いをされた時でも店の様子が分かるようにと、壁に穴を開けて細工したのだ。
勿論変な意味ではない。
揉め事や喧嘩に発展しないように、頃合いを見て厨房に戻るためには必要な細工だった。
なんだか杢太郎さんと尾形くんは、あんまり仲が良くないみたいだ。
杢太郎さんの方が、必要以上に尾形くんにつっかかってるように見える。
尾形くんに悪いイメージが全くない私は、杢太郎さんの態度の理由が知りたかった。
「手短にな」
二人が、小上がりにどさっと座る音が聞こえた。
「ええ、お伝えするだけだから」
「あなたが可愛がってた大きな犬。あの犬、先月、死にましたよ」
「・・・ああ。そう・・」
「でも安心してください。彼女、最後はちゃんと面倒みて、看取ってますから」
「ついでに・・・あなたには関係ないかもしれないけど」
「彼女、業界からは引退して」
「ハワイで、カフェやってます」
「あなたはカフェとか、お好きでしたね」
「・・・ハワイのどこかに、思い出の場所があるんでしょう?」
「健気なもんじゃないですか」
「・・・で?」
杢太郎さんの声に少し、不機嫌な様子が一瞬うかがえる。
「今叩いたって、お前さんが期待するようなホコリなんかひとつも出やしねえぞ」
そしてふっと一つ、笑うような息が漏れる。
「それともまたなんか、金儲けの当て馬にするネタでも、捻り出してきたのかい」
「・・・いえ、何も」
尾形くんが、聞いたことの無い、意地悪そうな笑い声を立てた。
「あの時の事、ご本人にバレるとこまでは想定してなかったんだけどなあ」
「どこの世界にも、ボンクラはいますね」
「お天道様は見てんだよ」
杢太郎さんの、深いため息が聞こえた。
「悪いことはできねえようになってんだ」
無感情に近い声で、尾形くんは話す。
「別に、悪い事はしてないです」
「元々あなたを陥れたってわけじゃないのだし」
「なんならWin-WInにさせる事すら、俺ならできた」
「嘘言うな」
「勝手に事大きくして、スキャンダルにまで仕向けたのは」
「どこの誰なんだよっ」
感情を押し殺したような静かな口調。
だけど、杢太郎さんは最後だけ少し、語気を荒げた。
・・あれは、作られた事だったの?
スキャンダルって?東京って・・・?
一軍選手の世界って・・そんなんが身近にある、そんな世界、なんだ・・
杢太郎さんは、そんな世界で生きていたんだ・・
「・・・でもしかし」
「まさかあなたが結婚するとは思ってなかった」
「遊んでる男ほど、地味で堅実な奥さんもらうって本当なんですね」
「あっちじゃ一時期、噂で持ちきりだったんですよ」
怒気をうっすらはらんだ杢太郎さんの声。
「俺とお前を一緒にするな」
でも尾形くんは、冷静そのものの口調を崩さない。
「それは同感です、菊田さん」
「俺も一緒にしてもらっちゃ困る」
「今日は単純にご挨拶ですよ。事案も終結してます」
「あれ、もしかして、犬の事はもう、どうでも良かったかな?」
「噛まれたんですもんね。むしろ忘れたいですか」
「今幸せなんですもんねぇ」
「相変わらず、いちいち引っかかる言い方する奴だねお前は」
「・・その性格でよくスコアラーつとまってたな」
「そういうのは、結果が全てでしょ」
尾形くんは、時折噛み殺したような笑い声をたてていた。
「・・・俺ならお前のデータがいくら役に立つって言われても」
「それ聞いてプレイする気になれんわ・・・」
少し呆れた風に、杢太郎さんがため息混じりに呟いた。
私は、自分が小刻みに震えているのが分かった。
心臓が、ドクドク音を立てている。
聞きたくなかった。いや、聞かなきゃ良かった。いや、聞いた方が良かった?
気持ちが混乱して、ちょっと収集がつかなくなっていた。
「しぃ」
突然声がかかって、私は飛び退くほど驚いた。
「はい、なーに?」
察されないよう普通を決め込んで、明るく明るく返事した。
「お茶一杯、淹れてもらえるかな」
杢太郎さんの声も、至って普通だった。
けれどその後にぼそっと
「飲んだら帰れよ」
低くドスの効いた声が聞こえた。
尾形くんを帰して、二人で店を出た。手を繋いでくれた。
約2ヶ月半離れ離れになる。
次に会えるのは、オールスター戦が始まる前の、7月下旬の予定だ。
戻っても、またすぐ行ってしまう。次に戻る日程は・・未定らしい。
まっすぐ家に帰らず、グラウンドまで行った。
そっと遠くから、二人で練習風景を見守った。
明日から、杢太郎さんはいなくなっちゃうんだ。ここに探しに来てもいないんだ・・
彼がつないでいた手の、指をきつく絡み合わせてくる。
見上げた彼は、まるで無表情にグラウンドをじっと見つめていた。
そしてやがて目を細め、唇をぐっと一度噛み締めた。
私の視線に気付いた彼はニッコリと笑い、「帰ろう」と私の手を引っ張った。
全然実感の無いまま今日まで来た。
違う・・実感したくないまま今日まで来た。
(沖縄ならまだ、そういうもんだと思ってたから・・)
明日は、杢太郎さんがとうとうアメリカに発つ。
(カフェとか好きだった、杢太郎さん)
(ハワイのどこかに思い出の場所がある・・・)
握られた手の感触は温かいまま残っている。
ここにいる杢太郎さんは、どこか違う世界にも、この感触を残している。
私の知らない杢太郎さんを感じると、やっぱり少し・・・
いやかなり、切ない。
