EP.02  WANDERING TAIL - 2/2

「ありがとう・・・こういうのも分かるの」

「こういうのって」

「なんか、なんでも出来るんだなあ、って・・」

私は、尾形くんが下ろしたスクリーンをもう一度上げ下げして固定させ、ほんとだわと、一人ブツブツ呟いた。

そしてカウンターに寄りかかり
「だってT大出てさ、一流企業にも行けたのにプロ野球選手でしょ」
「何か国語もペラペラだって聞いてるし」
「そして先乗りなんて、誰でも出来る仕事じゃないわよ・・」

あれっ、顔近い、と思った瞬間だった。
肘で私を抱き寄せて、ちゅ。
唇に触れるだけの、つつくようなキスだった。

「ええ。そうです」
「俺、何でもできますよ」
見下ろし気味の刺さるような視線に、ウソでしょ、と思った。
このひと私を射抜きにかかってる?

一瞬男っぽい、どこか誘うような、甘い香りが漂った。
カウンター越しだと、気づかない。
尾形くんと二人きりになっている。
妖しい香りはじんわりと、杢太郎さんがあんなに怒った意味を、私に教えた。

「尾形くん、ふざけんの止めよ」
私は極力つまらなそうに、色気の無いあきれ声を上げた。
勿論心臓はドキドキドキドキ、平常心であるわけない。
だけど絶対に悟られるもんかと、虚勢を張った。

「あれ・・全然動じないのかな」
尾形くんが私の頬に、髭を整えた頬を寄せる。

「いや、だって」
更にあきれ声で私は続けた。

「だって尾形くん、私の事好きでも何でもないじゃん」
尾形くんの腕をすり抜け、私は鼻で笑いながら言った。

「私、愛されてないと燃えないの」
無言で見つめる尾形くんに、頑張って不敵な笑みを投げかける。
「何でも出来るって言ったけど、私を燃やすことは出来ないね」

「へえ」
尾形くんは感嘆のような声を漏らし、もう一度小さな椅子に腰を下ろした。

「今のご自分の状況が理解できてるかどうかは別にして」
なんだか尾形くんは、滲み出る愉快さを押し殺しているようにも見える。

「男は、相手が燃えてたってそうじゃなくたってする事ぁできるんだけど・・」
一瞬考えるポーズを取った後腕を組んで
「ああ、あれか。心までは抱かれないわよ、っていうアレ」
ドヤ顔をして、大真面目に私に問いかける。

「お、尾形くん、な、なんか大丈夫・・・?」
尾形くんが、分からない。

「何が?」

聞かれても、具体的に答えられない。
だけど、この流れはチャンスだと思った。

「あのさ、尾形くん・・知ってたらでいいんだけど」

「?どうぞ」

「あの人も・・・こんなだったの?」

「あの人って。名前を言って」

「杢太郎さんも・・・東京にいる時って、こんな感じだったの?」

「周りくどいなあ・・・・あの、とか、こんな、ばっかりじゃ分からないでしょ」
悪戯っぽく笑う尾形くんの香りが、まだほんのり官能的に私を包んでいる。

昔、菊田選手のその手の話は、元々おじさん達との笑いのネタだった。
相当ヒドい弩鉄板の、大バカ話でしかなかった。

妖しい香りをムンムンと振り撒きながら、東京の夜を大股で闊歩していた・・とか。
いい女と見りゃあすぐに手が出て、片っ端からする事してた・・とか。
煽るような恋を甘い吐息で吹き散らし、笑って誤魔化しそれっきり・・とか。

「その・・ごめん」
一瞬涙ぐみそうになったが、意を決した。
できるだけドライを決め込んで、あっけらかんと問いかけた・・つもりだった。
「杢太郎さんも、尾形くんみたいに手が早かったのかしら?」

「気になるの、彼の過去」
尾形くんがくすくす笑いだす。
「サバサバ気取っちゃって。お嬢さんには似合わないな」
笑い声をこらえながら彼は続ける。

「そういう事は本人に聞いたら」
ははっ、と、ついに愉快そうに笑われた。

恥ずかしくて、私は憮然とした。
「意地悪。聞けないからこんな話してるのに」

そうでしょうねえ、と尾形くんは肩を竦めた。
「まあ・・・正直、枚挙すりゃいとまが無いんで・・」
そんなに笑いをこらえるほど、尾形くんは一体何を知っているの?

「その中に明かせる話なんて・・一つでもあっただろうか」
私の顔に軽く絶望感が浮かんだのを、多分尾形くんは見逃していない。

「お嬢さんは、しぃちゃんって呼ばれてるんだっけ」
急に聞かれて、私はへ?とおかしな返事をした。
「俺もそう呼ぼうかな」と独り言のように呟き、尾形くんは余裕の笑みを浮かべて
「気がかりなままだとお気の毒だから、これだけはお教えしときますね」

「過去の人との精算は、全部終わってる」

あ た り ま え だ 。
と思ったが、それはそれで、確かに心底ほっとした。

「こっちに住むようになってからの事は、しぃちゃん奥さんの方がよく分かってるでしょ」
その呼ばれ方は初めてだ。

「俺も、言っちゃあ悪いけど驚いてんです」

「な、なにに・・」

訊こうとしたところで尾形くんが立ち上がった。
「長居してすみません。楽しかった。また来ていい」

「え・・・いいけど、杢太郎さんが居る時にしようか」

「それ全然意味無いでしょ」
引き戸に手をかけて尾形くんは、思い出したように振り返って言った。

「ああ。そういえば旦那さん」
「あの人も、今帰国してますよ」

「えっ・・・・」

「連絡無いんだ」
「じゃ、どこで何してるのかなあ」

捨て台詞みたいに一言残し、尾形くんは店を出てピシャッと戸を閉めた。
「ちょ・・待って尾形くん!」

私は彼が発ってから、毎日毎日夢見ていた。
どんなに驚かされてもいいから、サプライズでいきなり帰ってこないかなあ、と。

杢太郎さんが本当に帰国しているのなら、きっと、そうやって帰ってくる筈。
まさか私に知らせずまた行ってしまう、なんて・・・
(あ、ありえないよね・・・)

キッチンに立ちながら少し考え込んでいると、小さなガチャ、という音。
普段気にも留めないオートロックを解除する音が、今の私には、とても大きく響いた。

(あーーーーーーーーーっ!!!!)
そーっと、リビングのドアが開く気配がする。自分の体が、ピクン、と反応した。
私は作業をしているふりをした。
彼はきっと、抜き足差し足で近づいてきている。

そして私を、小さな声で、そっと呼ぶだろう・・

「しぃー。タダイマ」
首筋に柔らかく、温かい人肌を感じた。
私は「きゃっ!」と声を上げ、大袈裟に飛び退く・・・ふりをした。
それでも、背中からすっぽり包まれた私の体の体温は、急上昇していく。

(良かった・・・・・・)
信じてはいたけれど、やっぱり不安だったのだ。

目に入ったのは、こちらを出るときには着ていなかった派手なジャンパーに通した腕。
そして指輪のはめられた、彼の左手。
手を重ねて、腕に顔をぽふーーーーと埋めると、私の肩は、小刻みに震え始めた。

「も・・・もう・・・・」
「嬉しすぎて心臓止まったりしたら、どうしてくれんのよぉ・・・・」

後ろから抱き抱えた私を左右に大きくスイングしながら、機嫌良さげに彼が笑う。
「はは。そん時ゃ全部脱がせて人工呼吸してやるよ」

こっちの心配も知らないで。
「ばか・・・」

朝。
彼はソファに寝転がって、流れるワイドショーを見ているのかどうなのか、わからない様子でテレビをぼーーっと眺めていた。
これまでは、ちょうど今くらいが寝る時間だった筈なのだ。時差と戦っているんだろうな・・

昨日、滞在は5日間と聞いた。
初日・最終日は移動だけで終わってしまうだろうから、家にいられるのは実質3日だけだ。

まだ、今回帰国した理由は聞いていない。
わざわざ戻るくらいの事だし、一言で説明できる話でもないのかしれない。
彼はソファで、腕を後ろ手に組んでゴロゴロしながら時折天井を見つめたりしていた。
下唇をちょっと突き出した表情は、何か考え事をしている雰囲気だった。

「杢太郎さん、私そろそろ出かけるけど・・本当にお昼、大丈夫なの」

あ、と言って彼は起き上がり
「俺も午後から事務所に顔出すから。外で食ってくからいいよ」

そしていつもの笑顔で言ってくれる。
「しぃの手料理は、夜まで楽しみにとっとくな」
私もやっぱり、杢太郎さんの為に料理するのが一番嬉しい。

「食べたいもの、何でも言って」

「・・・・カレー」

「カレーがいいの?分かっ・・」

「作ってやろうか」

「はい???」
杢太郎さんは、今まで一度もキッチンに立った事はない。
独身時代も、自炊は基本しない派だったって聞いていた。

「さすがに毎日外食も飽きてな」
「俺のカレー、評判いいんだぜ」
ドカッとソファに座り直し、彼は鼻の頭を親指でこすりながら得意げに笑った。

「えーーーー!すご・・・自分で買い物とかも行ってんの?」

「ったりめーだろ。・・そんなに驚くなよ」
無意識なのか背もたれにふんぞり返り
「今日事務所帰りに買い物しとく。明日はカレーだぞ。決定」

「で、・・・・今日はさ」
「しぃのオムライスが食いてぇ」
そんな可愛い笑顔で言われちゃ、100人前くらい作りたくなっちゃうわ・・。

久しぶりに食卓を囲んだ私たちは、まるで新婚さんみたいにキャッキャウフフした。
結婚したばっかりの時でも、あんまりそういう事は無かった。

オムライスにケチャップでハート型を描いたり。
あーんしてとか言って食べさせあっこしたり。
口元についたケチャップを舐めとってあげたり。
冗談みたいなラブラブモードでずっといちゃついた。

それで結局、彼が何のために帰国したのか聞かずじまいだ。
彼がこんなに甘々するのには、理由がある筈だ。
これは相当言い出しにくい何かを抱えている・・そんな気がした。

そして今、彼はカレーを作ってくれている。

私は、ゴミの分別とクッキングヒーター の使い方だけ教え、彼がキッチンで作業している間は一切口出しないと約束した。
キッチン周りで不明なことが起きた時すぐ出動できるよう、私はリビングでTVを見ながら待機している。

真っ白なTシャツに、カーキ色のハーフパンツ。
一体いつ買ったのだろう、黒いエプロンがよく似合う。
私はスリッパ履きの素足の、堅そうなふくらはぎを後ろからずっと眺めながら、お声がかかるのを待ち続けていた。

順調に美味しそうな匂いが漂い、不思議な鼻歌が聞こえる。

「しぃちょっと来て」
イソイソと行ってみて、そしてビックリした。
カレーはもうほぼほぼ完成に近く、片付けも概ね終わっている。

私は、男が気まぐれにする料理なんて全く期待していなくて、キッチンもシッチャカメッチャカにされるだろうと、半ば諦めに近い気持ちでいたのだ。

「杢太郎さん、キレイに作業するわねえ・・初心者とは思えないわ」
本当に感心して見上げると、彼は一瞬ニヤッと笑ったが

「いや、しぃ、なんか足りんと思わんか」
「味に締まりがねえんだよ」
と、私に味を見させた。

正直充分美味しいと思うのだが、杢太郎さんの言ってる事は分かる。
「えっ・・・どうしよう。まさかこんなにちゃんと作れるなんて」
思わず漏れた私の一言に、杢太郎さんがちょっと燃える。

「どうせうんこみたいなカレー食わせられるとでも思ってたんだろ」
不敵に笑う彼が、私に顔をぐっと突き出して迫る。
「奥さん、そりゃちょいとシツレイな話じゃねえか」

唇が付きそうなほど顔を近づけ、私をどきっとさせた後彼は
「ヒミツがあるなら、教えてくれよ」
と、とてもカレーを作ってる途中とは思えない、甘ったるい声で耳元にささやいてきた。

「もう・・・杢太郎さん、そそそそこまで言うなら」
「私のヒミツを、お、教えてア・ゲ・ル」
杢太郎さんみたいに、上手に甘いセリフを囁けない。

冷蔵庫から、いつもカレーに入れているチョコレートを取り出した。

「ああ、隠し味はチョコだったのか。どっかのレシピで見たことあるぞ」
私をこんなにドキドキさせた割には、あっさりと彼は舌打ちする。

「あら、ヒミツを聞き出したらその後は、随分とドライなのね」
ツッコむと彼は慌てて、いえいえそんな事はありませんありがとうございます、とか言いながら、私を適当に抱きしめた。

「ただね、私はこれしか使わないのよ」
「他のじゃ、ダメなのよね・・」
実はお取り寄せで買っている、北海道のビターチョコだ。

小さく割って溶かし、一煮立ちさせる。
味を見る彼の表情が一変した。
うん、うんうん、ウンウンウンウンウンウンウン・・・と忙しなく何度も頷く。

そして斜め後ろで見ていた私の方にキリッと向き直り、左手を顔の横にシャッと上げた。
私も慌てて、反射的に同じポーズをとる。
彼はパァン!と高らかなクラップ音を景気良く響かせ、私が勢いでよろめくほどの、渾身のハイタッチをしてくれた。
「いやー、分かった。どうやっても思うようになんないわけだよなあ」

「料理楽しいな。はまりそう」
本当に本当にもう、カレー作りに夢中になっていたのね・・
彼の屈託のない笑顔が可愛いすぎて、私も幸せ気分に包まれる。

きっと、夢みたいに美味しいカレーを食べたら、彼がなんの為に帰国したのかなんて、どうでも良くなってしまう。
ただただ、私はこの笑顔を毎日見られれば・・それ以上望んだらバチが当たる、と思った。

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 球団事務所の一室、鶴見GMの執務室。
男が一人呼ばれ、GMの夢語りが始まる・・。

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