EP.03-07 - 1/5

EP.03  さぷらいず・ぷろぽおず

「おい、しぃ」
明らかにイラついた杢太郎さんの声が、帰り支度を急ぐ私の名を呼ぶ。
「もうダメだ。結婚するぞ」
「俺はもう1ヶ月も待ってる。何で待たせる。話が進まない理由(わけ)は?」

えっ。1ヶ月「も」?・・・・・って、アレ・・何を、待ってんだろう?
私は必死で心当たりを、記憶の底から呼び起こす。

杢太郎さんが、新しいマンションへの引越しを終えた夜。
真新しいシーツがくちゃくちゃになった頃、果て切った私に、菊田・・杢太郎さんは、ベッドの上で私を見下ろしこんな話をした。

「しぃちゃん、俺の名前はね。モクタロウっていうの」
「あ、ハイ」それは知っている。
「ハイじゃなくて」彼が苦笑する。そして
「も く た ろ う」と一言一言私に教え諭すように言い、カワイイだろ?と小さく呟いた。
「あ・・・ハイ。も、杢太郎、さん」

杢太郎さんはニコニコっと笑って「よくできました、しぃ」
固い筋肉で締まった腕で、私をふんわりと包み込んでくれた。

私はもう一度、杢太郎さん、と彼の名前を呼び、汗に濡れたその胸に顔を埋めた。

抱き合いながら、杢太郎さんは私にこう言ったのだ。
「しぃ、お泊まりは、結婚するまでダメだからな。そこだけハッキリしような」

私はてっきり遊び人の男が、経験の少ない女を一般論で諭しているだけだと思っていた。
確かに私は腕の中でうなずいた。
まさか、それがその・・プロポーズで。
そして私がOKの返事をしたことになってたらしくて。

そんな関係になってからの日だって浅いし、だいたい好きだと言ってもらった事もない。
そんな即決でいいの・・?
嬉しい。とっても嬉しい。けれど当然、戸惑った。
恋多き男の言う事だ・・・
今を逃してしまったら、もしかしてこのままサヨナラになるのかも、と私は咄嗟に思った。

「あ・・・・あの」
「じゃ、う、うちに・・・・来て・・・くれる・・?」
「親父さんに挨拶だな。分かった。すぐ行く」
「あっ今じゃなくて。明日。せめて明日」
杢太郎さんのフットワークは、恐ろしいほど軽い。

翌朝。
うちの店には似つかわしくない、仕立ての良いお洒落なスーツに身を包んだ杢太郎さんがやってきて、父に急な時間に突然現れた非礼を丁寧に詫びた後、私と結婚するといきなり大宣言してしまった。

父は怪訝そうな顔をして、カウンターに頬杖をついた。
そしてとりあえず彼を、カウンターの丸椅子に座らせた。
座敷に座らせないなんて。
お父さんもずいぶん感じの悪いことをするな、と思い不安になった。

「・・・菊さん、ずいぶんとまた急な話じゃないの」
「急じゃないんだよ。俺としてはずっと考えてた事で」
「ずっと・・・・ねえ」
父が私をチラ見する。思わず目を逸らした。

「・・・・・・ところであんた、怪我の具合は、もう、いいの」
「うん。何にも問題ない。日常生活の支障も全然なし。健康そのものです」

「じゃあさ、なに」
「できたの」

父が、自分のお腹をまぁるく手で撫でた。

「ちがちがちがちが」
私が慌てて否定する。

父に話したことは無いのだけれど、まあ、毎日通ってれば、そりゃ、バレているよね・・

「ああそれとさ」「あー・・・・・」

不気味な沈黙の後、父は杢太郎さんに、畳み込むような口調で早口に問いただした。

「・・・・あんたの方は、隠し子とか」
「そういうの、居ないのかい。大丈夫かい」

「い、居ないです・・・大丈夫、・・・デス・・・」

「お父さん、ちょっと、何聞いてるのよ!杢太郎さん、ごめ・・」

「多分」

歯切れの悪さを追加する一言に、私は思わずぶ、と息を吹き出してしまった。
父はため息をついて頭を抱え、フルフルっと首を横に振った。

「え・・・・俺」
「ひょっとして・・・許してもらえないのかな」

さっきまであんなに自信満々だったのに。
杢太郎さんは今「あっそうかー・・」と呟きながら、大きな体をすっかり縮こまらせている。
思わず抱きしめたくなるがそこをぐっと我慢していたら、父が口を開いた。

「あんたなら、どうするね?」

「まあ、将来でもいいや。もし娘がいてさ」
「こういう男に、娘をやろうって気になるのかい?」

父が続ける。
「・・・いや。当人同士がいいんだったらいいんだけどな」
「あんたはまあ、正直だからさ」

一瞬、顔を上げた杢太郎さんの表情がほころんだ。
が、次の父の言葉でその表情は固まった。

それはまるで地の底から響くように、絞り出された声だった。
一言一言踏み締めるように、父は言った。
「逆にさ」
「今更要らねーとか言い出してみな。そん時は」
「・・・・殴るよ」

こんな怖い父は、私も初めてだった。

杢太郎さんはその声の圧力に、まるで弾かれるように立ち上がった。
勢いで丸椅子が倒れ、ガランゴロンと大きな音を響かせて転がった。
直立不動の杢太郎さんは、椅子が転がり止まるまで、父と見つめあっていた。

やがて杢太郎さんは父に向かって最敬礼をし、深く頭を下げたまま
「大切にします」
と一言、はっきり通る声でそう告げてくれた。
父は鼻で笑って「ふぅん」と言っただけだった。

「なんだかごめんね。お父さん、意地悪だったよね」
「いや。親だもん、当たり前だよ」
杢太郎さんはニコニコしていた。全然、堪えていないように見える。
お見送りに歩く河川敷の土手に降り、冬枯れの草むらに腰を下ろした。
杢太郎さんは素敵なシルバーのスーツが枯れ草にまみれるのも厭わずに、ゴロンと寝転がって空を見上げた。

「親父さんさあ、殴るって言っただろ」
「うん、そうね・・」
「俺にはさ」
「ブッ殺す。って言ってるみたいに聞こえたよ」

やっぱり気を悪くしたのかな・・私はどんどん悲しくなってきた。
黙り込む私に、杢太郎さんは優しく声をかけてくる。
「しぃ?」「俺なんだか今、ちょっとホッとしてんの」
な、何で。と小さく突っ込む私に対し
「親父さん、説明しなくても俺のこと分かってるしさ」
「申し訳ないけど、なんつーか有り難くってさ」
彼はそう言うと、大げさに胸を一つ撫で下ろす真似をし、空に向かってハハハッと笑った。
なんて前向きな人。
あの嫌な雰囲気に呑まれていた私は、彼の仕草に慰められた気がして、一緒に笑ってしまった。

河川敷の道を歩く人たちは、飯屋の娘と訳ありげに話している男が関カムの菊田だ、という事にほとんど気づいているはずだ。
だけどこの街では、それは特別な事ではない。
普段衆目に晒される人たちでも普段着の生活ができる、ここはそういう処だ。

土手の上から、どこかへ練習に行くのだろうか、ユニフォーム姿の子供たちが声をかける。
「きくたコーチーーーがんばってくださーーい」「がんばってくださーーーい」

体を起こして杢太郎さんが応える。
「おおーありがとうなーー。君たちも、頑張れよーー」

子供達を見送りながら、杢太郎さんに言った。
「ここに住んでる人たちはみんな関カムのファンだからね。菊田コーチには、期待してるのよ」
「ビシビシ、やってやってよ」私も勿論、ファンの一人である。

「頑張って。菊田こ・お・ち」
ちょっと可愛く言ってみたら、即小さなキスが唇に飛んできた。
ハッとして離れたが、私の心臓は早鐘のように激しく鼓動している。
柔らかな視線が真っ直ぐに絡んできたら、もう動けない。

肩を抱かれ、二度目はゆっくりと口付けた。
しかしいくらここが、選手の姿とかみんな見慣れている街だからって。

ちょっと濃厚すぎるけど、まあ、いいか・・・

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