オールスター戦が始まる前の7月下旬、彼が予定通りに帰国した。
彼の「裏ミッション」は、アメリカにいたんだから、当たり前だが何も進んでいない。
シーズン前半戦が終了して、関カムは最下位に転落していた。
不死身の杉元も最近不発で、テレビから伝わるベンチのムードも、心なしかどんよりしている。
それでも杉元くんはファン投票、投手部門1位でオールスター戦に選出されていた。
「やっぱり日本の夏と言えばこれだな」
冷えたビールとおつまみを並べて、私たちはテレビの前に並んで座っていた。
「日本人で良かったわあ」
流れ込む風に吹かれる気持ち良さのままに、私はしみじみ呟いた。
彼はそれを見て、大袈裟だなぁと笑う。
だけどその後すぐに笑顔の真顔になり、
「ああそうだな・・なんつーか、平和だな」と、遠くを見ながら同意してくれた。
エアコンを消し、窓もカーテンも全開にしている。
まだ日が落ち切らない窓辺の風鈴がちりーーん・・と鳴ったら、なんだかちょっと昔を思い出した。
おじさんたちのバカでかい、けど面白可笑しいお喋りを聞きながら、父と厨房で過ごしていた夏だった。
今は大好きな人の隣に座って、のんびりビールを飲みながらオールスター戦を楽しめる。
ターコイズブルーのタンクトップを身につけた彼の、逞しい肩、太い首・・
そういえば去年の今頃は、二の腕あたりからくっきりと境目がつくほど、日に焼けていた。
今年は現場に出ていないから、腕の日焼けも均一だ。
シャワーの後の瑞々しく張った肌は、さっぱりと機嫌良さげに上気している。
私は視線を下から徐々に這わせ、最後リラックスした横顔を、目を細めて眺め入った。
ああ、そしてこんなかっこいいしねーー・・・と、自然にトロン、と思わず呆けていた。
見つめられている事に気づくと彼は、横顔で穏やかに、ちょっと照れ臭げに、笑ってくれた。
幸せすぎて、溶けてしまいそうだ。
「ね、出てる時って、どんな感じだった」
気を取り直して、彼が持つグラスに瓶からビールをトットット・・と注いだ。
「忘れちゃったよ、もう」と彼が可愛い顔でふふっと笑う。
私はだいたい仕事中だったので、彼がオールスターでどういう活躍をしたのか、実は印象にない。
きっと、一発狙って長いバットをブンブン振り回していたんだろうな。
最後に出たのは2016年だったのだろう。
・・・それは彼にとっては、思い出したくない最悪の年だったのかもしれない。
まさかその1ヶ月半後、レギュラーに戻れない程の大怪我を負うなんて、想像した人はただの一人もいなかったはずだから。
・・・だけどそのお陰で、今の私の幸せはあるのかもしれないなあ、なんて・・。
不可思議な気持ちをこれ以上感じないよう、私はテレビに集中した。
第1戦初回、ファン投票1位の杉元くんがマウンドに立つ。
テレビに向かって頑張れーと声をかけた。
だけど、なんといきなり、先頭打者にホームランを浴びてしまう。
「あれっ・・」「あらららら」
「まあ、でも」
「そんなこともあるよね」
一本めは、それで済んだ。だけど・・・
「あら」「あれ」「えっ」「ちょ・・」「オイ」
・・・オールスター戦、先頭から6人連続ホームラン被弾。
もちろん、堂々の歴代ワースト記録樹立だった。
最初は2回まで投げる予定だった。
けれどワンアウトもとれないまま、コーチとしてベンチに入っていた門倉監督が泣きを入れて、メラメラ怒りに巻かれる杉元くんを、ムリヤリ交代させたらしい。
オールスターが終わり後半戦が始まっても、杉元くんの調子は一向に上がらない。
自分が打つ方も絶不調のスランプに陥り・・・
8月初旬のある日、ついに彼は、一軍登録を抹消された。
杉元くんファーム送りの報を受け、杢太郎さんの渡航予定は少しだけ、先延ばしになった。
「杉元!」
店の引き戸がガラッと開き、元気な女の子の声が響く。
「あっちゃんさん!大きくなったね!」
ゾーヤママから杉元「さん」だろ、と窘められるのも全く意に介さない。
あっちゃんは一直線に杉元くんに駆け寄った。
「杉元・・会いたかったぞ」
「あっちゃんさん、俺も・・」
「などと私が言うと思ったか、杉元」
声色が変わり、あっちゃんは低く叩きつけるように言い放つ。
「最近の体たらくは何だ。今のお前からは、迷いしか感じられない」
「勝負する気はあるのか。それはプレイ以前の問題だ」
「一体どうした杉元。分かっているのか」
感情を押し殺したような、厳しくキッパリとした口調だった。
だけど最後、少し声をひそめて
「何か、あったのか」
と、杉元くんを気遣った。
杢太郎さんがヒュウ、と口笛を吹く真似をする。
「よくご覧になってらっしゃるわ」
杉元くんは質問には答えず、伏せ目がちにぐっと口を結んだ。
けれど顔を上げた時は優しい表情で、
「心配かけちゃってるな、俺」
そして上手くないウィンクをしながら
「大丈夫、ちょっと調子がおかしいだけだよ」
と、笑って見せた。
「杉元・・お前、都会に出てなんか雰囲気変わったな・・」
と、あっちゃんがウィンクにドン引きする。
杉元くんは、えっウソ、おかしかったかな?と、拗ねたようにぶぅ、と口を尖らせた。
あっちゃんは、今高校2年生。野球の名門校へ入学した。
その学校はスポーツだけでなく勉強にもすごく力を入れていて、あっちゃんは入寮して毎日練習に、勉学にと忙しい毎日を送っている。
家に戻れるのは、このお盆休暇ぐらいなのだという。
再会を祝して、ウチの店の小上がりでお食事してもらった。
食後もあっちゃんはずっと杉元くんに、野球の話をし続けていた。
練習のこと、試合のこと、プレイのこと・・あっちゃんがこんなに話す子だったとは、私も少し意外だった。
杉元くんは少しの議論とたくさんの相槌を、色んな表情であっちゃんに向けて贈っていた。
「野球バカ二人」
と、カウンターに避難したゾーヤママが、杢太郎さんと私に向かってニヤリと笑う。
「あっちゃん、杉元くんとお話したかったんだねえ」
「言いたい事言える相手が必要なのは、誰でも一緒ですね」
「菊太郎もずいぶん、大人みたいな事言うようになったもんだね」
からかわないで下さいよ、と笑う杢太郎さんにゾーヤママがポツリと言う。
「みんな大人になったら、尚更、そう思うよな」
いつしか二人は、楽しげにおしゃべりに花を咲かせていた。
「その饅頭がさ、小鳥の形してるんだ。どうして食う前提のものを可愛くするのかな。やめてほしいよ全く」
「頭から食え、杉元。顔が無くなったらその瞬間から、その饅頭はただの、美味い饅頭だ」
さっすがあっちゃんさん、と杉元くんが手をポン、と叩いている。
気が合うお互いには、年齢差や男女別は、あんまり関係無い。
私たちはほのぼのと、若い二人を見守っていた。
ゾーヤママ親子が帰った後、杢太郎さんと杉元くんは横並びでカウンターに座り、ビールを注ぎあっていた。
居間のお仏壇から、ほんの僅かお線香が香る。
お前もお世話になったことあるんだろうと、杢太郎さんが杉元くんを連れて、父にお盆の手を合わせてくれたのだ。
「さて、ちょっとは気分も変わったか」
杢太郎さんがビールを一息に飲み、杉元くんに笑いかける。
「あっちゃんさんは、相変わらず偉いなあ・・」
杉元くんは、んーーーーーっと息をつきながら、大きく伸びをした。
「俺は、野球の未来なんて、一度も考えたこと無いです」
視線を斜め上に向けたまま、ため息がちに呟く。
『私は、みんなが好きなところで、自由に野球が出来るようになったらいいと思う』
『女子だから女子野球とか、日本人だから日本人野球だとか、こだわる必要は無いと思うんだ』
『勿論、それが間違っているわけじゃない。みんなが私と同じでなくても構わない』
『そして、真剣勝負だって絶対に必要だ。仲良しこよしでプレイしようと言っているわけじゃない』
『ただ、そういう事でなにか、自分が進みたい道へ自由に歩む事を、躊躇している選手が』
『・・・もし、いるなら』
『私がひとつの、道標になる。それは、私に出来ることだと思うんだ』
16歳のあっちゃんが語ってくれた理想だ。
野球はひと頃の人気こそ影を潜めたが、少しずつ、プレイ人口の裾野を広げている。
昔ここでおじさんたちに、野球もそうだし、サッカーや、スキージャンプや、自分が若い頃は女の子がやるスポーツじゃなかったと、デカイ声で何度も聞かされた。
「女子の野球チーム」も増えてきた。
ただ、あっちゃんは「女子野球部」のある学校を選んだわけではなかった。
甲子園に何十回も出場実績のある名門「野球部」に所属し、男子と一緒に内野手としてレギュラー定着の為、日々練習に励んでいる。
基礎体力では男子にどうしたって敵わない分、あっちゃんは常に頭脳的で、要所を押さえることに長けている。
ただ、それはあっちゃんの並外れたセンスがあるから出来る事だ。
誰にでも真似できるというわけでもないのは、明らかだった。
関カムに入ってくれたらと思う反面、今のチームにはあっちゃんの守る内野の空きが無い。
二遊間ツキコイコンビは不滅だろうし、牛山さんが引退したファーストにはアリコくんが回った。
そしてサードにはとうとう、夏ちゃんが定着しつつある。
「俺は何やっても、役に立たないなあ」
杉元くんが両肘をカウンターに突き、両手で顔を支える。
「せっかく応援してくれる人たちを、ガッカリさせるばかりで」
「自分が嫌になってきます」
「あの嬢ちゃんが眩しかったか?」
「却って今のお前さんにゃ、堪えるかもな」
「将来を担う若者の・・理想に燃える、キラキラお目目はな」
「いいえ・・・・・」
言葉とは裏腹に、杉元くんはまるで自分を小さく見せるように、体を縮こませる。
「ただ最近、俺なんで野球続けてるんだろうって思う時があるんです」
「毎日、毎日・・また裏切るのか・・って」
「だから俺としては、死ぬ気で頑張ってるつもりなんです・・けど」
杢太郎さんの表情は固かった。
少し空気が、重く感じる。
「そ、そういえばさ、杉元くんって杢太郎さんに憧れてプロ入ったって」
「いろんなところに書いてたよ?」
「そうなの?だったら私はその話聞きたいわ」
杢太郎さんに、ねっ、と無邪気な表情を作って笑いかけた。
あ、と気がついたように彼は固い表情を一変させて、そうだな、と杉元くんに笑いかける。
「野球始めたきっかけとかも、良かったら教えてよ」
「聞かせてほしいなあ、杉元くんのこと」
わざと甘えるような声を出して、重い空気に気づかないような笑顔を向けた。
「ちょっと、順番に話して行っていいですか」
しばらく、彼の話を聞いていよう。
はにかんで少しだけ微笑んだ杉元くんは、ああ、本当に、美形だ。
