菊田くんは怒りに任せるように、尾形ちゃんを壁際に思い切り叩きつけます。
そして二、三歩軽くバックステップを踏みました。
まるで巨大な弓を一気に引き絞ったような、背筋がしなる独特の遠投フォーム。
縦に振りかぶった右腕の先にはボールではなく、固く結んだ拳が握られています。
鋭く一閃するのは、サードを回ったランナーを撃ち落とす時の、殺意に近い眼光。
全ては、一瞬の動作です。
僕のアタマに唐突に、彼の現役時代の異名が、蘇ります。
(撃墜王菊田)
そう、菊田くんは、ホーム補殺回数歴代1位の記録を持っているんです・・
・・あ?
あんな、高速レーザービーム・・・
・・・・そんなんモロに当てたら尾形ちゃんが死んじゃうよーーー!?
「菊田くん、奥さんは!!??」
彼の拳が、尾形ちゃんの顔前でピタリと止まります。
「奥さんは?は、はははは早く行ってあげた方が、いいんじゃないの!?」
僕が焦って騒がしく叫ぶと、菊田くんはハッと我を取り戻したようでした。
「・・・・しぃ」
「後は僕に任せて!さあ、さあ早く!」
僕が半ば強引に、裏口へ連れて行きます。
今何時と問う彼に、だいたい8時くらいだよ、と適当に答えて外へ出しました。
奥さんがどうなってるのか、僕には分かりません。
ただ、誰かが奥さんを迎えに行っている。
あんな事を聞かされた男性が、奥さんを迎えに行っているんです・・
***********
「こっちだと、あんまりフードついてるコート着てる人いないよな」
アリコくんはコートの左手を抜いて、私の頭に被せて自分はフードをかぶった。
私は今、アリコくんの厚いコートにすっかり包まれて、その中で左肩を抱かれていた。
コートの下は、鎖骨まで見える深い切れ込みの、Vネックのグレーのニット。
コートを脱ぐのに躊躇したその首元は、アクセサリーなんか何もないのに、とてもセクシーだった。
触れるその上からでも感じる、アリコくんの、鍛え上げられた厚い腹筋と、熱い、胸。
(えっ・・・・・アリコくん・・・)
私の心臓が、どくん、とひとつ、大きく鼓動した。
アリコくんが、私の髪に指をかき入れて、撫でた。
「しぃちゃん」
甘く名前を囁かれ、体が熱くなった。
「諦めなきゃ良かった」
アリコくんが、やや早口で小声に出す。
それはお父さんのことを言っているんだと思っていたのに。
「・・・・・俺は、あの人に」
「君が泣かされてるなら耐え切れない」
私の鼓動が早く、大きくなっていく。
あの人?泣かされてる?・・・って何・・・
アリコくんは・・何を言いたいの・・?
「あのね、き、聞いてもいい・・?」
「アリコくんは・・・・誰に」
「誰に言われて、来て、くれたの・・・?」
杢太郎さんに言われたなら、こんな風になるわけない。
それは怒りを押し殺すような、激しい囁きだった。
「・・・・・知らないへんな女だ」
「そいつ・・・」
私を胸の中に抱きよせるアリコくんの左手は、激情を堪えるようにぎりぎり震えている。
頭を二度三度強く横に振った後、アリコくんは呻くように言葉を絞り出す。
「しぃちゃん・・・・」
「・・・・奥さんを、迎えに行けと、言ったんだ」
私は今まで杢太郎さんに、そんなので泣かされた事なんて一度もない。
なんかおかしい。
それとは別に体が火照る。
アリコくんはコートに隠した私を、両手で抱きしめた。
13年前からも、私が結婚してからも、そして、今も。
アリコくんは私を、ずっと想い続けてくれている。
それは、想いを受けて痺れるように熱くなってゆく、私の体が証明している。
髪に掻き入れられたアリコくんの甘く優しい指先が、その想いを声にならない囁きに変える。
触れた私の首筋から、肌を直接透し、染み入る想いが送り込まれようとしていた。
どうしてこのタイミングでアリコくんが現れるんだろう。
アリコくんに電話したのは一体、誰・・・・
切ない感情が押し寄せて、私の思考をどこかへ追いやろうとする。
無意識に、アリコくんの胸にたまらず頭を押し付けていた。
「しぃちゃん」
「ひとりで・・・帰れるかい」
アリコくんが囁く。
記憶がフラッシュバックする。
これはあの日の、アリコくんのセリフだ。
あの駅前で、アリコくんにこう声をかけられたのだ。
私は・・・・・
ちょっと好きだったアリコくんに甘えたくて、酔って自転車の後ろに乗り込んだ。
そして甘ったれた声で
「帰れなぁい」
と、その背中に、しがみついたのだ。
私たちはもう、19の子供ではない。
胸の中に一気に込み上げた郷愁を力一杯飲み込んで、私は答えた。
「大丈夫」
「・・・・ひとりで、帰れるよ」
不意にアリコくんが、私の顎をぐいっと上げた。
彼の表情は見えない。
体ごと、強い力で抱き抱えられる。
いきなり、唇が強く強く押しあてられる。
アリコくんの唇から私の唇を通って、彼の重くて激烈な感情が、一気に注がれる。
それはまるで、突然の雪崩のようだった。
気づいたときにはもう遅い、飲まれたら、最後だ。
逃げられない。
(ダメ・・・・!)
私は全身を強張らせ、アリコくんの胸を掌で、力の限りグッとおっつけた。
二、三度私の唇を咥えるように確かめた後、アリコくんの手が、ふっと緩んだ。
ゆっくりと唇が離れ、体は、解放された。
フードを外して、私をコートの中から出した彼は、友達同士の笑顔で私に言った。
「そうか、気をつけてな」
「ホテルはあっちだ。もう分かるよな」
「ありがとう・・・・」
ベンチからアリコくんはスッと立ち上がり、大きな歩幅で植込みを抜けた。
私もそれを急いで追いかけて、メインストリートへ出る。
もう、雪はうっすらと石畳を覆っていた。
「転ぶなよ」
アリコくんは、ニッコリ顔で私にバイバイと手を振る。
私も、気をつけてね今日はどうもありがとう、と手を振った。
お互い背を向けて歩き出した数歩後、どさっと何かが落ちる音が聞こえ、反射的に振り返った。
降りしきる雪の中に、アリコくんが、膝から崩れ落ちて背中を丸め、頭を地面に突っ伏していくのが見えた。
私は、その場から走って逃げた。
13年前私は、アリコくんを傷つけた。
19歳の私の記憶は、切なげに光る綺麗な結晶になって、時を留めていた。
だけどアリコくんの時は、止まっていなかった。
だとすれば私はずっと、13年間ずっと、アリコくんを傷つけ続けていたんだろうか。
私は迫りくる雪崩から逃げるように、ひたすら駆け続けた。
その間心の中では
(救けて)
(救けて、救けて)
(救けて、杢太郎さん)
ずっと、そう叫び続けていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
店に戻ると、尾形ちゃんは壁際にほっぽかれたままの姿で、無の顔をしていました。
「尾形ちゃん煽っちゃってさ・・・あのパンチ受けたら顎が砕けちゃうよ」
助け起こすと、尾形ちゃんは何もなかったような顔で僕に語り始めます。
「知ってる?前山さん」
「捕殺数が多い外野手って、ヘタクソの証なんですよ」
「ランナーに舐められて、走られてる証拠ですから」
「そうとは限らないでしょ・・」
さっきまで何が起こっていたのか、尾形ちゃん自分で分かってんのかって感じです。
何気なくモニタを見やると、まだ時たま、切ない嗚咽が聞こえてきます。
「ねえ前山さん、他の男を思って泣いてる女を、抱いたらどんな気持ちかなあ」
「えっちょっと。やめときなよ尾形ちゃん!」
「思ったから言ってみただけでしょ」
「本当に前山さんはいい人なんだから」
「いい人かどうかは関係ありません」
僕はピシャリと断言しながら、イケちゃんの元へ向かいました。
あんなにギラギラしていた彼女が、うなだれて、しおれています。
頭を垂れる悲しげな姿は、過ぎる季節に取り残された、夏の終わりのひまわりのようです。
やがて床に伏して華奢な背中を細かに震わせる彼女は、裸の胸に彼の上着を抱きしめて、涙を思いのまま染み込ませています。
床に頭を擦り付ける彼女を見て、僕はぼんやりと、ああ、あれクリーニングに出さなきゃな・・なんて思いました。
上着を引っ張ると、彼女は全力で、涙を振りまいてイヤイヤをする。
「ケガは無かったかな?」
と腕をさすり、手のひらを向けさせます。
そして、ふわりと毛布を背中に纏わせました。
一瞬力の抜けた腕から、上着をサッと抜き取ります。
あっ、と彼女は声を上げました。
「イケちゃん、こっちの毛布の方が、肌触りが良くて気持ちいいでしょ?」
ね?と同意を求めた僕の言葉に、クリーニング仕立ての毛布の乾いた匂いを嗅ぎながら、彼女はピョコピョコと頭を何度も縦に振りました。
「イ・・ケちゃん。君は、本名なんていうの?」
僕は、菊田くんが彼女のことを「イケ」と呼んでいたのが気になりました。
いくら何でも、彼女を飲み屋のあだ名でしか呼ばないなんて、結構ちょっと・・
ちょっとちょっとな男かな、と思っていたんで。
彼女が顔を上げて、濡れた大きな瞳で僕を見つめます。
「あたし、イケ子って言います」
「えっ、本名だよ?」
「本当に。彩りに、景色の景。それに子。彩景子です」
「あっ・・・・そうだったの。綺麗な名前なんだね」
褒めると、彼女は涙が乾き始めた頬をほんのりピンクにして、照れ笑顔を浮かべます。
「そうでしょ。気に入ってるんだ」
「こんな事に懲りずに、また遊びにおいで。イケちゃん」
「ありがとう、前山さん・・前山さんって、ホントいい人ね」
「よく言われます」
尾形ちゃんの言い方を真似すれば、僕も少しはいい男に見えちゃうでしょうか?
僕がカウンターへ戻ると、尾形ちゃんの携帯が鳴り始めます。
いくつ持ってるのか知らないけれど、着信音はいつも違う。
ニヤついて電話に出た尾形ちゃんの表情が、みるみるうちに曇っていきます。
「え・・・・あ。そう。ご苦労でした」
「いえ、追いかけなくていいです。報酬は、そのままお支払いします」
棒読みの電話を切った尾形ちゃんは、感情を失った顔で、身動き一つ出来ないでいます。
何があったんだろう。
尾形ちゃんの表情は、今、氷のように固く、冷たいのです。
何だか見ていられず僕は、片付けを装って彼に背中を向けました。
「あいつら絶対、ラブホ行くと思ったのに」
その小さな呟きの意味するところをどんなに理解しようとしても、想像が及びません。
やがて尾形ちゃんはクスクスと小さく笑い出し、やがてたまにハッ、と堪えきれずに笑い声を漏らしました。
「ああそうか」
「そんなに、イイってことかぁ?」
しばらく謎に独り言ち、いつまでもくくく、と笑っている尾形ちゃんを、僕はそっと見守ってました。
